軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第382話:『覇王の終焉、白銀の盾と影の舞』

血の臭いと泥の味。

深い沼の底に沈んでいた意識が、チリチリと焼けるような痛みに引かれてゆっくりと浮上してくる。

(……俺はどうしたのだ……)

クルガンの重く分厚い瞼が僅かに開いた。

視界は赤黒く濁り輪郭がぐにゃりと歪んでいる。耳の奥では絶え間なく甲高い耳鳴りが響いていた。

身体が動かない。胸元からは耐え難い激痛が脈打ち、命の熱が土の中へと流れ出していく感覚だけが異常に鮮明だった。

濁った視界の中で少し離れた場所に立つ白銀の巨漢――シュタイナーが大剣の血を拭い終え、帝国兵たちに陣の片付けや負傷者の搬送を大声で指示しているのが見えた。

もっと近く。

自分の血だまりのすぐ傍で濃紺のドレスと銀の仮面をつけた小さな影が、副官の女と何やら話をしている。

(……あ、れは……)

泥に塗れた脳髄に稲妻のような閃光が走った。

『天翼の軍師』。

己が築き上げた覇国を力ではなく不可解な盤面操作によって崩壊させ、数万の大軍を烏合の衆へと変え、そして己をこの泥の中に叩き落とした全ての元凶。

(……殺す……ッ!!)

理屈も王としての尊厳も、もはやそこにはなかった。

クルガンを突き動かしたのは、すべてを奪われた獣の純粋でドス黒い殺意だけだ。

彼は血泡を吹きながら大剣を握ろうと右腕に力を込める。

だが動かない。そこにあるべき腕の重さがない。

(……腕がない……?)

遅れて己の利き腕が肘の先から無残に切り離されているという現実が、脳に伝達される。

しかしその絶望すらも狂乱の燃料と化した。ならば残った左手で。

クルガンの左指が泥の中を這い、傍らに落ちていた大剣の冷たい柄をがばっ! と掴み取った。

「うがァッ!!」

声にもならない獣の呻き。

心臓の最後の一滴まで血を燃やし尽くし、クルガンの巨躯がバネ仕掛けのように泥の中から跳ね起きた。

完全に死んだと思われていた怪物の執念の奇襲。

背を向けているリナめがけ左片手で振り上げられた大剣が、狂気の速度で振り下ろされる。

――だが。

その死の凶刃が彼女に届くより遥かに、圧倒的に早く。

「えっ?」

背後に何かを感じ、リナが振り返ろうとしたその瞬間。

スッ、と。

隣に控えていたセラの腕が伸び、自らの着ていた上着を広げるようにしてリナの頭から顔まですっぽりと包み込み、自らの胸元へと抱き寄せた。

「そのまま少し、お待ちを」

耳元で囁かれたセラの声は子守唄のように優しく、そして一切の動揺を含んでいなかった。

リナの視界が完全に布で遮断され、背後で起きる光景は彼女の目から完全に隔離された。

リナがセラに抱き寄られた、その時には。

シュピンッ!!

空気を、いや空間そのものを切り裂くような極限まで研ぎ澄まされた抜刀の閃光が 奔(はし) った後だった。

ヴォルフラムだ。

音すらも置き去りにする神速の踏み込み。彼女の身体はクルガンが飛び起きた瞬間にはすでに間合いを完全にゼロにしていた。

蒼い瞳に宿る絶対の守護者としての冷徹な光。

振り下ろされる大剣の軌道の下へ滑り込むと同時。

下段から跳ね上がる斬撃がクルガンの大剣を握る左腕をバターを切るように切断し、そのまま手首を返して放たれた横薙ぎの刃が巨漢の太い首を完璧に一閃した。

腕を断つ一太刀と首を刎ねる一太刀。

その二つの斬撃はまるで同時であるかのように全く隙間なく重なり合い、ほぼ同時になされていた。

さらにそれと同時。

ヴォルフラムの斬撃が奔る僅かに前、クルガンの足元にはすでに黒い影が張り付いていた。

ゲッコーだ。

彼は音もなくクルガンの両足に鎖を絡みつかせ、その体勢を 雁字搦(がんじがら) めに縫い留めていた。首と腕が飛んだ後もその巨躯が前へ倒れ込み、リナのドレスの裾を血で汚すことすら絶対に許さない完璧な足止め。

チャキッ。

ヴォルフラムが剣についた血糊を空中で振り払い、何事もなかったかのように涼しい顔で残心を解く。そしてテクテクと踵を返し、セラの傍へと戻ってきた。

セラが、氷のような微笑みを浮かべたままで、ゲッコーへと視線で目配せを送る。

ゲッコーは無言で頷いた。

刹那、彼の背後の闇から四人の『影』が音もなく湧き出し、クルガンの遺体と転がった腕と首を分厚い黒布で素早く包み込む。

シュタタタッ! とまるで風に散る煙のような人外の速度で、彼らは血の跡一つ残さず荒野の彼方へと消え去っていった。

狂王の最後の一撃から遺体が処理されるまで。時間にしてわずか数秒。

「……はい、リナ様。もうよろしいですよ」

セラがふわりと上着を退け、リナを解放した。

「……え? なにが?」

リナが顔を上げた時、彼女の視界には平和な荒野の風景と、いつものように涼しい顔で立つセラとヴォルフラムの姿しかなかった。

背後で起こった凄惨な一瞬の死線など、彼女の認識には欠片も触れていない。

◇◆◇

その一連の人間離れしたとも言うべき連携の全てを。

少し離れた岩陰でへたり込んでいたガルドは、瞬きすら忘れて見つめていた。

(……な、なんだ、今の剣は……)

息の根を止められたはずの猛獣の奇襲。それに対する全く動じることのない、流れるような、そして過剰なまでの防衛と処理能力。

自分と 鎬(しのぎ) を削るレベルの武力を誇ったクルガンが、一瞬の抵抗すら許されず流れ作業のように解体されたのだ。

帝国の『天翼の軍師』。その周囲に侍る者たちがいかに異常な者の集まりであるか。それを思い知らされ、ガルドの全身の毛穴が総毛立っていた。

「……どうだ」

指示出しを終えたシュタイナー中将が、ドシ、ドシ、と重い足音と共にガルドの傍らへ歩み寄りどっかりと 荒座(あぐら) をかいてしゃがみ込んだ。

「あれがワシの弟子でな。……面白かろう?」

シュタイナーはニィッと悪戯っぽく笑い、遠くでリナの世話を焼いているヴォルフラムを顎でしゃくった。

「……おぬしじゃぁ、あれには勝てんかのぉ?」

ガルドは押し黙った。先ほどの腕と首を同時に落とする神速の連撃。確かに今の自分が万全の状態で対峙したとしても、初見で防ぎ切れる自信はない。

「いやぁ、どうだろうな? 逆立ちしても勝てんかも知れんの? がっはっは!」

シュタイナーは、沈み込んでいたガルドの肩をバンバンと叩き、これでもかとしつこく煽り散らす。

「あの小娘はな、以前は毎日のようにわしがしごいてやったが、今や独り立ちして勝手に化け物じみてきおって。おぬしも、いつまでも岩の陰でいじけておらんと、少しはあれくらい身軽に動けるよう鍛え直した方がええと違うか?」

「……ぐ、ぬぅっ……」

ガルドの額に青筋がピクンと浮き上がった。

死にたがり、すべてを終わらせようとしていた彼の胸の奥底。そこにくすぶっていた武人としての矜持にドクドクと熱い血が流れ込み始める。

自分は眼前の白銀の武神にも遠く及ばない。あの女騎士、あれも規格外だ。真剣勝負で勝つのは至難の業だろう。

(アランのようなこれから伸びていく若造はともかく……。ここで立ち止まっている場合ではない……!)

「……このまま終わってたまるか……!」

ガルドの深緑の瞳に、再び強烈な闘争心と、「生きて超えねばならない壁」への執念の炎が灯った。

シュタイナーはその炎が確かに燃え上がったのを見届けると、満足げに鼻を鳴らし、再び豪快な笑い声を荒野の風に乗せて響かせた。