作品タイトル不明
第381話:『荒野の晩餐と、軍師の小言』
赤黒い夕陽が地平線を舐め、荒野に落ちる影が底なしの闇のように伸びていた。
空気を重く満たしていた鉄と血の生臭い匂いが、冷たい北風に吹かれて少しずつ散らされていく。
カラン、と。
乾いた土の上に、穂先の欠けた槍が力なく転がった。
覇国軍の兵士たちは、もはや抗う気力すら失い、次々と武器を投げ出して大地にへたり込んでいる。見えない呪縛から解放された反動で、彼らの目は虚ろに濁り、ただ荒い呼吸だけが静寂の平原に響いていた。
その光景を背に、北辰同盟の陣営では全く別の活気が生まれつつあった。
あちこちでパチパチと 篝火(かがりび) が焚かれ、巨大な鉄鍋が火にかけられる。
ジュウウッ! と獣の肉が脂を弾かせる音。香ばしく焼け焦げる小麦の匂いと、濃厚なスープの香りが、戦場の死の匂いを暴力的なまでに上書きしていく。
バラクとアランは、何よりもまず両軍の兵士たちの胃袋を満たすことを優先し、盛大な炊き出しを始めさせていた。
「――各部族の長よ、聞け」
鍋から立ち上る湯気を前に、バラクが低く重い声で集まった族長たちを見据えた。
「覇国の領地をどう切り分けるか、新たな同盟の約定をどう結ぶか。……今はそのような話をする 刻(とき) ではない」
鳶色の瞳が、疲弊しきった族長たちを一人ひとり射抜く。
「詳細を詰めるのは、日を改めてあの『道の駅』とやらで行う。……今はまず、各々が自らの民の腹を満たし、安全に里への帰路に立たせることだけを考えよ」
その言葉に、族長たちは深く、安堵の息を吐き出して頷いた。
◇◆◇
喧騒から少し離れた、影の濃い岩肌。
冷たい土の感触に、ガルドは重い瞼をゆっくりとこじ開けた。
「……ぐ、ぁ……」
呻き声と共に身を起こそうとした瞬間、顎から 鳩尾(みぞおち) にかけて、骨の髄を揺らすような激痛が走った。
視界がぐらりと歪む。自分が気絶させられていた事実が、鈍い痛みと共に脳裏に蘇った。
耳に届くのは、剣戟の音ではなく、薪が爆ぜる音と、遠くで民が食事を摂る穏やかなざわめき。
ガルドは痛みを堪えながら、薄暗い平原へと視線を巡らせた。
少し離れた血溜まりの中に、覇王クルガンの巨躯が泥に塗れて打ち捨てられている。あの若き 獅子(アラン) に深々と斬り裂かれ、すでに事切れた 骸(むくろ) 。
だが、あの怪物の傍に仕え、その底知れぬ力を見てきたガルドの武人としての本能が、チリッと微かな警鐘を鳴らした。
(……あの規格外……今にも起き上がってきそうだな)
血溜まりの中の指先が、ピクリと動いたような錯覚すら覚える。
しかし、ガルドは小さく首を横に振った。
(……考えすぎか。あれほどの深手だ。いくらあの男でも生きていられるはずがない)
残滓のような幻影を頭から振り払うと、ガルドは岩に背を預け、座り込んだまま泥に塗れた自らの分厚い両手を見つめた。
覇国は崩壊し、主君は地に伏した。
自らの命を燃やし尽くし、武人としての「けじめ」をつけるはずだった死に場所は、あの白銀の巨漢によって粉々に砕かれた。
戦斧は手から離れ、手のひらには虚無だけが残っている。
岩窟の民をこれからどう導けば良いのか。生き恥を晒した己に、一体何が残されているのか。
深緑の瞳が泥のように濁り、彼はただ深くうつむき、己の呼吸の重さだけを持て余していた。
◇◆◇
シャクッ、シャクッ。
戦場の中央付近で、シュタイナー中将は分厚い布で大剣の血糊を無造作に拭い取っていた。
白銀の甲冑には、返り血一つ飛んでいない。
タッタッタッ!
背後から、泥を強く踏みしめる足音が近づいてきた。
シュタイナーが振り返ると、そこには深い濃紺のドレスの裾を揺らしながら、足早に歩み寄るリナの姿があった。その後ろには、セラとヴォルフラムが影のように付き従っている。
リナの銀の仮面の下、結ばれた唇は小刻みに震え、肩が大きく上下していた。
怒りではない。極限まで張り詰めていた心配の糸が、限界を振り切って「静かな圧」へと変質しているのだ。
彼女はシュタイナーの巨躯の前にピタリと立ち止まると、グッと顔を上げ、その大きな岩のような顔を真っ直ぐに見据えた。
「……中将閣下」
声音は、冬の湖面のように静かだった。
「なにか、私にいうことはありませんか?」
その、底冷えのする静かな響きに、歴戦の武神の肩がビクッと跳ねた。
「え、えっと……」
シュタイナーは、先ほどまでの威風堂々たる覇気はどこへやら、視線を明後日の方向へと泳がせ、太い指で頬を掻いた。
「す、すまんかった! でも、ここはワシじゃないと収拾がつけられんかったじゃろう、というか? ワシ以上にここに立てる役者は……のう? そうじゃったろう?」
必死に言葉を並べる大将軍に対し、リナは一言も発さない。
ただ、仮面の奥から、じとーっ……という音が聞こえそうなほどの、極寒の視線を突き刺し続けた。
「う、あ、わ、わはははは。あー、あぁ、すまん! じゃが、あそこまで舞台が揃ったら、そこはわしじゃろ? な?」
脂汗を滲ませながら豪快な笑いで誤魔化そうとするが、声は裏返り気味だ。
「ガルドさんと、戦いたいのを堪えきれなかったんですよね?」
寸分の狂いもなく図星を突かれ、シュタイナーの言葉が喉の奥で詰まった。
「あ、あー、まぁ、その、なんじゃ? そういう事が必要な事も……なぁ? のう! セラよ!」
シュタイナーはたまらず、後ろに控える副官へと助け舟を求めた。
「ワシ、カッコよかったじゃろう?」
セラは、唇の端に完璧で美しい、氷の彫刻のような微笑みを浮かべた。
「……存じませんわ」
ピシャリと。一切の温度を持たない一刀両断。
シュタイナーの巨体が、目に見えてしょんぼりと縮こまる。帝国の武神が、八歳の少女と冷徹な副官の前に完全に撃沈した。
だが、彼が 項垂(うなだ) れかけたその瞬間。
ぎゅーっ。
シュタイナーの分厚く冷たい鋼鉄の胸当てに、小さな身体が勢いよく飛び込んできた。
リナが両腕を回し、顔を鎧に強く押し付けていた。
「リナ……?」
「……無茶しないでください」
鎧越しに響く声は、ひどく震え、潤みを帯びていた。
「……でも。ありがとうございました」
自らの策の破綻を救い、死にたがりだった武人の命を散らさずに留めてくれた。その規格外の強さと優しさに、リナの張り詰めていた心が完全に解け、安堵の熱が涙となって滲み出していたのだ。
シュタイナーは一瞬目を丸くし、そして。
「……がっはっは!」
照れ隠しのように豪快に、荒野の空へ向かって笑い声を上げた。
鋼鉄のガントレットを外した、分厚く温かい大きな手が、彼女の小さな頭を、わしわしと優しく撫でる。
暮れゆく西の空が、紫色から深い群青へと溶けていく。
遠くでパチリと篝火の薪が爆ぜる音が、冷たい風に乗って静かに流れていった。