作品タイトル不明
第376話:『残心と凱歌』
覇王クルガンの巨躯が赤茶けた大地に崩れ落ちた後、荒野は嘘のような静寂に包まれた。
風が吹き抜け、もうもうと舞い上がっていた砂塵がゆっくりと晴れていく。
数万の兵士たちは瞬きすら忘れてその光景を凝視していた。
血だまりの中に伏す黒い獣。
無敵を誇り北の民を恐怖で縛り付けていた絶対的支配者が土に塗れ、痙攣を繰り返している。
だがその男を斬り伏せた若き獅子――アランは微塵も油断していなかった。
彼は荒い息を吐きながらも剣の切っ先をクルガンに向けたまま、音もなくすり足で間合いを詰める。額に引かれた赤い戦化粧から玉の汗が滴り落ちていた。
「……ガ、ァ……」
血の泡を吹きながらクルガンの指先がピクリと動いた。
致命傷を負いながらもその規格外の生命力は未だに彼を死淵から引き留めている。伏せたままの右手が無意識に大剣の柄をまさぐろうと 蠢(うごめ) いていた。
アランの瞳に冷徹な戦士の光が走った。
いかに深手とはいえこの化け物を相手に一瞬でも気を抜けば致命的な一撃を喰らいかねない。何より数万の群衆に「覇王の完全なる敗北」を視覚的に証明する必要があった。
アランは両手で柄を握り直し、静かに、しかし躊躇いなく刃を振り上げた。
ザンッ!!
肉と骨を断つひどく生々しく重い音が平原に響いた。
「グ、ギャァァァ……ッ!!」
クルガンの喉から獣の断末魔のような悲鳴が漏れる。
彼の右腕――これまで幾多の命を奪い、北の民を恐怖で支配してきた利き腕が肘の先から無残に切り離され、血飛沫と共に土の上へと転がった。
それは暴力の化身が完全に牙を抜かれ、無力化されたことの決定的な証明だった。
アランは返り血を浴びたままクルガンの巨体から一切目を離すことなく、すっ、すっと数歩後方へ距離を取った。
完璧な残心。
クルガンの巨体がびくンと大きく跳ね、やがて完全に動かなくなるのを見届けると、若き獅子は血に濡れた白刃を天高く突き上げた。
「――クルガンはここに倒れた!!」
腹の底から絞り出された咆哮が秋の冷たい風を裂いて響き渡った。
その若く力強い宣言は張り詰めていた数万の軍勢の呪縛を断ち切る決定的な一撃だった。
一秒、二秒の空白。
やがて誰からともなく上がり始めた低いどよめきは瞬く間に大地を揺るがす大歓声へと変わった。
「うおおおおおおおおっ!!」
「勝った! 北辰同盟が勝ったぞォォッ!」
それは北辰の戦士たちだけの歓喜ではない。
死の恐怖に怯え、無理やり進軍させられていた覇国の兵士たちからも 堰(せき) を切ったように安堵と解放の叫びが沸き起こった。武器が投げ捨てられ、見えざる呪いと狂王の圧政から解放された喜びが荒野全体を熱狂の渦へと巻き込んでいく。
新たな英雄の誕生が北の大地に確定した瞬間だった。
◇◆◇
その光景を遥か丘の上から見下ろしていた私の視界がふっと 滲(にじ) んだ。
銀の仮面の下で強張っていた頬の筋肉がゆっくりと緩んでいく。
エノク老師が自らの命を盾にして作ってくれた隙。あの血塗られた老人の姿が脳裏に焼き付き、私の指先は氷のように冷え切っていた。自分の策が尊い命を奪うことへの恐怖。それが内臓を握り潰すように私を責め立てていた。
だが眼下で白刃を掲げるアランの姿。
そしてその死角からスッと現れ、己の無事を示すように一度だけこちらへ向かって短く一礼し、再び影へと溶けていったゲッコーさんの姿。
「……あ、あぁ……」
口から言葉にならない掠れた息が漏れた。
膝からガクリと力が抜け、私はその場にへたり込みそうになった。
「リナ様……!」
すかさず背後からセラさんが私の身体をしっかりと支え留めてくれた。その温かい腕の中で私は長く、深い、魂の底からの安堵の溜息を吐き出した。
「……よかった……生きて、無事で……本当によかった……っ」
ぽろぽろと仮面の隙間から涙がこぼれ落ちていく。
エノク老師の件は決して消えない痛恨として私の胸に刻まれている。けれどこれ以上の犠牲を払うことなく狂王の支配を打ち砕くことができた。私の無理な願いに応え、誰も死なせずにあの絶望的な怪物を制してくれた二人への感謝が胸を締め付けた。
ヴォルフラムさんもまた安堵に満ちた蒼い瞳で私の背中を優しくさすってくれていた。
◇◆◇
歓喜の熱波が渦巻く平原の中央。
倒れた三将軍の傍らで息を整えていたバラク、ゴード、エルラの三人もアランの勝利の雄叫びに深い安堵の笑みをこぼした。
「がっはっは! やりおったわあの若造!」
ゴードが血に塗れた戦槌を担ぎ直し、豪快に笑う。エルラもまた口元に確かな微笑みを浮かべていた。
バラクは見事に大役を果たした息子の頼もしい背中を見つめ、細く息を吐いた。
(……これで北の未来は開かれた。軍師殿の描いた絵図は見事に完成したわい)
誰もが長かった悪夢の終焉を確信していた。
数万の兵が歓喜に沸き、武器を掲げて新たな英雄を讃えている。
だが――。
ズン……ッ。
その熱狂の只中、覇国軍の陣列の奥から空気を凍らせるようなひどく重い、硬質な足音が一つ響いた。
ズン……ッ。
歩みを進めるごとに周囲で喚声を上げていた兵士たちの声が水を打ったようにピタリと止んでいく。
モーゼの海のように割れた群衆の間から静かに前に進み出てくる一人の男。
使い込まれた革鎧。手入れの行き届いた鉄の胸当て。
『岩窟の民』族長、ガルド。
彼の深緑の瞳には熱狂も、敗北への絶望もなかった。
ただ武人としての底知れぬ静かな気迫と決して曲げることのできない悲壮なまでの覚悟がその全身から冷たい炎のように立ち上っていた。
ガルドの重い足音が歓喜に沸いていた平原の空気を急速に冷却していく。
彼がアランとバラクたちの前に歩み出た時、戦場は再び息をするのもためらわれるほどの張り詰めた静寂に包まれていた。