作品タイトル不明
第377話:『静寂を破る岩、ガルドの進み出』
歓喜の絶叫が赤茶けた荒野を揺るがしていた。
狂王クルガンが大地に伏し、若き獅子アランがその勝利を高らかに宣言した瞬間、数万の兵士たちを縛り付けていた恐怖の鎖が弾け飛んだのだ。北辰同盟の戦士たちだけでなく、無理やり駆り出されていた覇国の兵士たちまでもが安堵と解放の涙を流し、互いに抱き合い、あるいは武器を空へと放り投げていた。
だがその熱狂の 坩堝(るつぼ) をひとつの重く硬質な足音が氷水のように急速に冷却していった。
ズン……ッ。
地の底から響くようなその足音は歓声の隙間を縫って兵士たちの心臓を直接叩いた。
一人、また一人と叫ぶのをやめ、足音の主へと視線を向ける。そして皆息を呑んで後ずさった。
歓喜の海がまるで目に見えない巨大な刃で切り裂かれたかのように真っ二つに割れていく。
静まり返る群衆の間を抜け、ゆっくりと前へ進み出てくる一人の男。
使い込まれ、幾多の戦傷が刻まれた革鎧。一点の曇りもなく磨き上げられた鉄の胸当て。
『岩窟の民』族長、ガルド。
彼の深緑の瞳には狂信も、敗北への絶望もなかった。あるのは研ぎ澄まされた氷の刃のような純度百パーセントの「武人」としての気迫だけだ。
彼が歩みを進めるたび周囲の空気が重みを増し、肌を刺すような緊張感が戦場に満ちていく。
ガルドはピクリとも動かなくなったクルガンの巨体と荒い息を吐くアランの数歩手前でピタリと足を止めた。
「……下がれ、アラン」
アランが再び剣を構え直そうとしたその時、背後から泥と血にまみれた巨大な手が彼の肩を掴んだ。
バラクだった。
満身創痍の体を引きずりながら、古狼は息子の前に立ち塞がるようにして、かつての戦友と真っ直ぐに対峙した。
二人の将の間に秋の冷たい風が吹き抜ける。
「……ガルドよ」
バラクは低く、どこまでも穏やかな声で語りかけた。
「もう良かろう」
その言葉には武器を置けという命令ではなく長年の友を労うような深い情が込められていた。
「クルガンの覇道は潰えた。お主が掲げた理想もあの男の狂気と共にとうに泥に沈んでおったはずだ。……お主もよく耐えた」
バラクは自らの武器を足元の土に突き立て、両手を広げてみせた。
「この後の事は若い者に任せてわしらはゆっくりと北の行く末を見守らんか」
共に北の未来を憂い、共に違う道を選んだ友。
バラクはガルドが真に民を思う男であることを誰よりも知っている。これ以上この実直な男に無意味な血を流させたくはなかった。
ガルドはバラクの言葉を黙って聞いていた。
その固く結ばれた唇が微かに震え、彼が足元の土に視線を落とした瞬間、周りの者には決して聞こえないかすかな、しかし確かな囁きが風に乗ってバラクの耳に届いた。
「……岩窟の民をよろしくお願いします」
それは覇国の将軍としてではなく一人の族長としての切実な遺言だった。
自らの部族が「覇国の残党」として弾圧されぬよう北辰同盟の長であるバラクに一族の未来を託したのだ。
「……ただし私はダメだ」
ガルドがゆっくりと顔を上げた。
その深緑の瞳の奥に悲哀を完全に焼き尽くした烈火の如き覚悟の炎が燃え上がっていた。
「私だけは……ここでけじめをつけさせて頂こう」
もし自分がここで降伏すれば岩窟の民は「裏切り者の長を持つ部族」という十字架を背負うことになる。そして何より最初の剣としてクルガンに 跪(ひざまず) いた自らの武人としての 矜持(きょうじ) が主君の死骸を前にして生き恥を晒すことを許さなかった。
バラクの 鳶色(とびいろ) の瞳が痛ましげに見開かれる。
彼が止める間もなくガルドは大きく息を吸い込み、戦場全体を震わせる 大音声(だいおんじょう) で宣言した。
「――我はヴォルガルド覇国を支える武人であるッ!!」
その声はクルガンが放っていた狂気や恐怖とは全く異質の鋼のように純粋で重い覇気を帯びていた。
ビリビリと空気が震え、数万の兵士たちの肌が総毛立つ。
「私のあるうちは!! この北の地を帝国の息のかかった者になぞ自由にはさせん!!」
ガルドが腰の戦斧を引き抜いた瞬間、彼を中心に爆発的な気迫の渦が巻き起こった。
それは自らの命を燃やし尽くしてでも敵の前に立ちはだかる一人の武人の絶対的な領域だった。アランもその気迫に気圧され、一歩後ずさりしてしまう。
「……ガルド……おぬし……」
バラクは顔を歪め、呻くように友の名を呼んだ。
彼が自らをあえて「帝国の犬を討つ悪役」に仕立て上げ、この戦場に散るための死に場所を求めていることをバラクは痛いほどに理解していた。
ガルドの放つ悲壮で、しかし神々しいまでの武の覇気が戦場を完全な沈黙へと引きずり込んでいく。
彼を倒さねばこの戦いは終わらない。だが誰がこの死の領域に足を踏み出せるというのか。
戦場に重苦しい静寂が満ちたその時。
離れた丘陵から、その圧倒的な覇気に応えるかのような凄まじい気配が膨れ上がり始めた。