作品タイトル不明
第373話:『禁忌の詠唱、カナンの影』
静寂を破ったのはアランだった。ギリと奥歯を噛み締める。
「……我々の手で、決着をつけなければならない!」
彼は制止の声を背中で振り切り、泥濘を蹴って単騎、前へと躍り出た。
「いかん! アラン戻れッ!」
バラク殿の悲痛な叫び。
「無茶です! 止めないと……!」
私も焦燥に駆られ、身を乗り出す。
「――私がサポートしましょう」
耳元を掠めたのは、冬のさざめきのように静かな声。
振り返る暇もなかった。ゲッコーさんの姿は、すでに私の傍らから幻のように消え失せていた。
アレンは白刃を抜き放ち、血塗られた大剣を提げて喘ぐクルガンを、その切っ先で真っ直ぐに指し示す。
「我こそは『風読む民』バラクの息子アラン! 暴君クルガン、我らの手で引導を渡してくれる!」
若き獅子の声が、凍てついた平原に高く響き渡った。
同時に、戦場の中央で倒れ伏していたエノク老師の周囲に、突如として砂煙が舞い上がった。煙が晴れた時には、もうそこには血の跡しか残っていない。
「何っ!?」
クルガンが苛立たしげに周囲を睨みつける。
「……リナ様! あちらです!」
セラの鋭い声に導かれ、視線を巡らせる。
戦場の端。丘の麓に広がる岩陰へと、ボロ布を纏った数人の影が、血まみれの老師を抱えて信じがたい速度で後退していくのが見えた。カナンの暗部たちだ。
そこには、同じくフードを深く被った治療師たちが待ち構えていた。
「セラさん! ヴォルフラムさん! 行きます!」
「お待ちください、危険すぎます!」
「いいから! お願い!」
私は制止を強引に振り切り、ドレスの裾を泥に汚すのも構わず、岩陰へと全速力で駆け出した。
心臓が肋骨を突き破りそうに脈打ち、肺が灼ける。ただ、彼の命の灯火が消えぬことだけを、祈りながら。
「セラさん、ヴォルフラムさん早く!」
ドレスの裾が尖った岩に引っかかり嫌な音を立てて裂けた。だが気にする余裕などない。転がるようにして岩陰の奥へと駆け込むとそこには濃密な血と泥の匂いが滞留していた。
「エノク老師……ッ!」
膝をつく。老師の顔は、石膏のように青白かった。
ボロのフードを深く被った数人のカナンの女たちが血に染まった布でエノクの胴体を必死に圧迫していた。だが彼女たちの指の隙間からは絶え間なく赤黒い液体が溢れ出し冷たい岩肌を黒く汚している。
エノクの顔は石膏のように青白かった。ひゅうひゅうと喉の奥で笛が鳴るような浅い呼吸。吐き出す息のたびに紫に染まった唇の端で血の泡が弾ける。
私が駆け寄った気配を感じ取ったのかエノクの閉じていた瞼が微かに持ち上がった。
焦点の合わない灰色の瞳が私を捉えやがてその口角がゆっくりと吊り上がる。
「……ふふ……」
掠れた風の音のような笑い声。
「……言ってやったわ……。これで、もう……奴の足元は……覆せまい……」
自らの命と引き換えに覇王の虚構を数万の兵の前で粉々に砕き散らした。その完璧な「取引」の成果を誇るように彼は痛みに顔を歪めながらも笑った。
「そんなことに……命をかけるのは間違っています!」
私の声はひどく震えていた。銀の仮面の下でとめどなく涙が溢れ出し頬を伝って顎からこぼれ落ちる。彼らに北方の情報操作を頼んだのは私だ。だがこんな犠牲を払えとは一言も言っていない。
「……想定よりも……クルガンめ早かったのう……」
エノクの視線が虚空を彷徨い血に染まった手が何かを探すように微かに動いた。
「……お嬢ちゃん……。……分け前は……しっかりと弾んでくれのぅ……」
その言葉を最後にエノクの目がゆっくりと閉じられ呼吸がさらに弱く間遠くなっていく。命の灯火が今まさに風前の塵となろうとしていた。
指先から急速に熱が引いていく。
頭の奥でグラン宰相が読み上げた神話の一節が警鐘のように鳴り響く。
『――その魂は大地に溶け人の形を失い世界そのものとなった』
使えば私は消えるかもしれない。自分が自分ではなくなる恐怖が足元から這い上がってくる。
だがこの冷たくなっていく命を見捨てることなどできなかった。
エノクがこうして死の淵に立たされているのは他でもない、私が彼にこの危険な盤上の役割を任せ指示した結果なのだ。私の言葉が彼を死地に追いやった。その責任を己の存在を天秤にかけて逃げることなど決して許されない。
私は震える両手をエノクの血まみれの傷口に翳し強くきつく目を閉じた。
「《……周囲に居るあまねく命を……》」
唇から古代の言の葉が紡がれた瞬間岩陰の空気がピンと張り詰めた。大気が微かに共鳴し私の指先から淡い光の粒子が生まれかける。
――ガシッ!
不意に血まみれの分厚い手が私の手首を鷲掴みにした。
ハッとして目を開けると死の淵にいたはずのエノクが信じられない力で上体を跳ね起こしていた。
「それは成らんぞ! 天翼の!」
眼球に赤い血走りを浮かべ鬼気迫る形相でエノクが絶叫した。血の飛沫が私の仮面を汚すのも構わず彼は私の腕を強く押しのける。
「その言葉は御身の破滅を招く! 知っておるのか! 使ってはならぬ……ッ!」
エノクの濁った視界の中で銀の仮面をつけた少女が息を呑むのが見えた。
(……この少女は我らカナンの民にとって奪われた故郷を取り戻す唯一にして絶対の「希望」だ。その希望を自分のような一人の命と引き換えに消費させるなどカナンの民としての計算が許すはずがない……)
薄れゆく意識の中でエノクはかすかに笑みを浮かべようとし――そのまま糸が切れた操り人形のように再び岩肌へとばたりと倒れ込んだ。
ボロのフードを被って懸命に介抱していたカナンの巫女たちも驚愕に目を見開いて私を振り返っていた。だが彼女たちはすぐに意識を現実へと引き戻し再びエノクの傷口を塞ごうと必死で治療を再開する。
「エノク……!」
私がもう一度手を伸ばそうとしたその時。
巫女の一人が血に染まった手を私に向けゆっくりと押し戻すように前に出た。
「ここは我らに任せていただきとうございます」
静かだが有無を言わさぬ強い響きだった。
暗いフードの奥から覗く瞳には自らの手で同胞の命を繋ぐという執念と明確な意志があった。
声なきその訴えが物理的な圧力となって私を押し返す。彼女は私を押し下げるようにすると私の背後にいるセラへと視線を送った。
無言の目配せ。
セラはそれを受け静かに頷いた。
「……あ……」
私の唇が震え紡ぎかけた言葉が空中に霧散した。
硬直する私の肩を後ろから温かい手がそっと包み込んだ。
セラだった。
彼女は私の肩を抱き寄せゆっくりとしかし強い力で私をエノクから引き離す。
「……リナ様」
耳元で囁くセラの声はどこまでも冷静でそして慈しみに満ちていた。
「彼らの覚悟を、誇りを無にしないでください。……今は前を向く時です」
その言葉に私は奥歯を強く噛み締めた。
口の中に血の味が広がる。
滲む視界を手の甲で乱暴に拭い私は仮面の下の表情を凍てつかせた。
私が為すべきは彼らが命を懸けたこの「舞台」を絶対に勝利で終わらせること。
私は岩陰から身を翻し再び視線を平原の中央へと向けた。
土煙が舞う中激怒に身を震わせる巨漢クルガン。
その正面に剣を構え対峙する若きアラン。
そしてアランの背後、クルガンの死角となる絶妙な間合いに飄々と佇むゲッコーの姿があった。
真実の刃によって崩壊が始まった軍勢の只中で北の未来を決する戦いが今まさに火蓋を切ろうとしていた。