作品タイトル不明
第372話:『真実の刃、血に染まる誇り』
荒野を吹き抜ける北風が、一瞬にして色を変えた。
エノク老師が放った乾いた、しかし異様な重みを孕んだ「言葉」は、目に見えぬ透明な刃となって、黒い軍勢の最後尾まで一気に駆け抜けた。
はじめは、凪いだ水面に落ちた一滴の毒のような、微かなさざ波に過ぎなかった。
最前列で槍を構えていた兵士の指先が震え、隣の戦友と困惑に満ちた視線を交わす。だが、その波は瞬く間に疑心という名の濁流と化し、幾万の陣列を飲み込んでいった。
「……毒だと? 俺たちが命を預けたあの薬が……俺たちの家族を殺そうとしていたのか?」
「覚えがある。あの夜、カナンの遺民たちが夜陰に乗じて置いていった包み……『紫の紐』の袋に入った薬を飲んだ弟だけが、翌朝に熱を下げていたんだ。それ以外の奴らは……」
「なら、俺たちの故郷を焼き、家族を病の淵で殺したのは呪いじゃねえ。……覇王様が、あえて俺たちを見捨てたってのか?」
押し殺した囁きが、乾燥した草原を走る野火のように、怨嗟の叫びとなって連鎖する。
ヴォルガルド覇国を縛り付けていた、絶対的な『恐怖』という名の鎖。それは本来、最強の結束を生むはずの道具だった。だが、その鎖が「裏切り」という 錆(さび) によって内側から崩壊を始めた。
兵士たちの目に映るクルガンの背中は、もはや崇めるべき神でも、従うべき王でもなかった。部下の命を啜り、泥を啜らせ、自分たちをただの使い捨ての肉壁としか見ていない、醜悪な怪物。
沸き起こる怒りと混乱は、統制されていた軍の足並みを物理的に停止させた。掲げられていた数千の軍旗が、主の戦意喪失に呼応するように力なく垂れ下がり、荒野に不気味な静寂が広がる。
その光景を、孤立した最前線で見下ろすクルガンの 貌(かお) は、この世のものとは思えぬ、煮え繰りかえるような憤怒に染まっていた。
黄色い瞳の細血管がはち切れんばかりに充血し、こめかみにはドクドクと不規則に太い青筋が脈打っている。
己が血と暴力、そしてヴィクトルの精密な知略で築き上げた秩序。それが、たかが一人の、長年「家畜」として虐げてきた老いた奴隷の言葉によって、文字通り砂の城のごとく瓦解していく。
それは、彼の肥大化した自尊心を、これ以上ないほど無残に、そして決定的に抉り出した。
「――貴様ァァァァァァァッ!!」
理性を完全に焼き尽くした、獣の咆哮が荒野を震わせた。
クルガンが大地を蹴る。地響きが轟き、その巨大な肉体が爆発的な推進力となって、エノクへと肉薄した。
重厚な大剣が、太陽を遮るように天高くへと振り上げられる。
エノクはその死神の刃を目前にしながら、わずかに口角を上げたままだった。
背を丸め、よぼよぼと杖を突いていた「哀れな老人」の仮面は、すでに剥がれ落ちている。そこに立っていたのは、国を奪われ、誇りを奪われ、それでもなお牙を研ぎ続けてきた復讐者としての、凛烈たる 漢(おとこ) の姿だった。
「……計算は、合いましたかな」
エノクは老練な身のこなしで半身を翻した。風の流れを読み、クルガンの殺気の「芯」を外す。
一撃目。かろうじて躱したはずの剣圧だけで、エノクの頬が裂け、肩口の肉が鋭く削ぎ落とされた。
「ぐっ……!」
鮮血が冬の寒空に舞う。だが、エノクの灰色の瞳は、まだ死んでいなかった。
彼は知っていた。自分がここで、数万の同胞たちの前で「殺される」ことこそが、この盤面における 最後の一手(チェックメイト) であることを。自分が流す血がクルガンの王冠を永遠に汚し、民の反逆の炎を絶やすことのないものに変えるのだと。
そして、狂乱した覇王の振るう二撃目は人の限界を超えた質量と速度を伴っていた。
ゴアァァッ!!
空気が爆ぜるような音が響く。
大剣の「腹」がエノクの細い胴体を、逃げ場のない広範囲で深々と打ち据えた。
肉を断ち、骨を砕く、ひどく鈍く、そして生々しい破壊音が平原に響き渡る。
エノクの身体は、まるで糸の切れた操り人形のように宙を舞った。
赤い飛沫が残酷な弧を描き、老師の身体は冷たい土の上へと絶望的な音を立てて叩きつけられた。
「老師……ッ!!」
丘の上からその光景を凝視していた私の喉から、悲鳴が引きちぎれるように飛び出した。
銀の仮面の下で、顔面から一気に血の気が引いていくのがわかる。指先が感覚を失うほどに冷たくなる。
後悔が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。
私が彼を、あの場所へ立たせたのだ。
情報の力だけではクルガンは止まらない。最後には「本物の犠牲」が必要だと私の心のどこかで計算していなかったか?
自分への嫌悪と怒りが混ざり合い、視界がチカチカと真っ白に明滅する。
戦場は、一瞬の凄惨な静寂に支配された。
目に映るのは血だまりの中でピクリとも動かなくなった、たった一人の老人の姿。
そのあまりに理不尽に迫る死を前に、数万の軍勢は、ただ立ち尽くしていた。
だが、その静寂は「沈黙」ではなかった。
兵士たちの瞳の奥で灯ったのは、クルガンへの服従ではない。
自分たちの明日を、誇りを、そして今の老師の命を奪った暴君への、骨まで灼きつくすような深い「殺意」だった。
崩れ落ちたエノク老師。
彼は土に塗れた顔を僅かに動かし、焦点の合わない視線で、私がいるはずの丘の上の空を見つめた。
声にはならない、血の泡が混じった微笑。
その誇り高き老商人の魂が北の大地そのものを揺るがし始めた。
最前線で咆哮するクルガンの背後では、誰に命じられることもなく、兵士たちがじりじりと、その刃を覇王の背中へと向け始めていた。