軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第371話:『覇王の激昂、老商人の決死』

土埃が舞う荒野の真ん中で絶対的な暴力が牙を剥いていた。

「ええい退け! 俺が全てうち滅ぼしてくれようぞッ!」

大剣を肩に担ぎクルガンが巨体を揺らして猛進する。

一歩ごとに大地が悲鳴を上げビリビリと空気が震える。完全に血走ったその瞳は眼前のバラクたちを肉塊に変えることしか考えていない飢えた猛獣のそれだった。

対する北辰同盟の三族長はもはや指一本動かす余力すら残されていなかった。

三将軍との凄惨な死闘により限界をとっくに超えた肉体。泥と自らの血に塗れたバラクたちは肩で荒い息を繰り返しながらただ迫りくる巨大な死神を睨み据えることしかできない。

クルガンが天を衝くような軌道で大剣を振りかぶった。

殺戮の嵐が吹き荒れようとしたまさにその時――。

ふわりと。

死の気配が渦巻く平原の中央、クルガンとバラクたちの間に一枚の枯れ葉が舞い落ちるように細く頼りない影が立ち塞がった。

過酷な労働と巧妙な変装で作り上げた「弱き老人の仮面」を被ったカナンの頭脳。エノクだった。

「――邪魔だ老いぼれェッ!!」

クルガンの怒号が爆ぜた。

覇王の眼には突如湧いて出たその老人が道の石ころ程度にしか映っていない。大剣を振り下ろすまでもない。彼はそのままの勢いでその脆弱な体を蹴散らそうと踏み込んだ。

だが。

エノクはゆらりと動いた。

まるで風に押し流されるように半歩後方へ滑る。

クルガンの分厚い肩が空を切り風圧だけがエノクの粗末な衣を激しく煽った。

「ちぃッ!」

クルガンが苛立たしげに舌打ちをしさらに一歩大きく踏み込む。

しかしエノクは再びゆらりと下がる。

決して剣の間合いには入らない。かといってクルガンからバラクたちへ向かう直線上の射線からは外れない。

それは武術の歩法ではない。

長年黄金の都カナンで修羅場を潜り抜け、そして裏社会の死線を見極めてきた男の極限まで研ぎ澄まされた「間合いの感覚」だった。

一歩進めば半歩下がる。

獲物を 屠(ほふ) るために最適化されたクルガンの暴力的なリズムが得体の知れない老人の奇妙なステップによって狂わされていく。

ほんの数秒。

だが殺意の沸点に達していた覇王の突進の勢いを削ぐには十分すぎる時間稼ぎだった。

「……貴様何の真似だ。その命惜しくはないのかッ!」

完全に歩みを止められたクルガンが大剣の切っ先を突きつけ地鳴りのような声で凄む。その顔は怒りにどす黒く染まりこめかみには太い青筋が脈打っていた。

殺気が物理的な重さを持ってエノクにのしかかる。

普通の人間ならその場に平伏して命を乞うほどの圧倒的な圧力。

しかしエノクは逃げなかった。

彼の喉の奥から乾いたしかし異様に響く音が漏れた。

「……ふっ。……ふっふふふふ……」

それは弱者の怯えではない。

絶対的な強者を前にしてなおその足元を冷ややかに 嘲笑(あざわら) う底知れぬ笑い声だった。

「……何がおかしい」

クルガンの目付きが 険呑(けんのん) なものへと変わる。

エノクはゆっくりと顔を上げた。

背を丸めた「老いぼれの仮面」が剥がれ落ちていく。

その灰色の瞳に宿っていたのは燃え盛るような復讐の炎。

奪われた故郷カナンへの無念。踏みにじられた女神像の記憶。そして泥水を 啜(すす) りながらも決して捨てなかった商人としての誇り。

「――哀れよのぅクルガン。落ちぶれたものよ」

静かなだが刃のように鋭い声が風に乗って荒野に響いた。

「な……に?」

「力だけで全てを従えられると信じ玉座にふんぞり返るだけの裸の王!お前の足元がとうに腐り落ちていることにも気づいてさえおらぬ!」

エノクは両腕を大きく広げた。

彼が向いたのはクルガンではない。その後方、息を殺して事の成り行きを見守っている数万の覇国軍の兵士たちだった。

「聞け! 北の民よ!」

エノクの腹の底から絞り出された 大音声(だいおんじょう) が何もない荒野にビリビリと反響する。それはただの老人の声ではなかった。長年虐げられてきた者たちの魂の叫びそのものだった。

「この男はお前たちを救う覇王などではない! ただ己の欲のために我らの血を啜る寄生虫だ!」

「き、貴様ッ……! 黙れェッ!」

クルガンが怒り狂い大剣を振り上げようとする。だがエノクの言葉の奔流は止まらない。

「お前たちが恐れた『大地の呪い』! あの恐ろしい病の特効薬が実はこの男の手によって 隠匿(いんとく) されていたのを知っているか!」

「それどころか! 南のバラク殿が命がけで手に入れた本物の薬にこの男とあの毒蛇の参謀はあろうことか『毒』を混ぜてお前たちに配った!!」

その一言が数万の軍勢に 雷(いかずち) のように落ちた。

「お前たちの家族が苦しみ血を吐いて倒れたのは呪いのせいではない! 全てこの男が己の支配を盤石にするためお前たちを恐怖で縛り付けるために仕組んだ『悪行三昧』だ!」

エノクの目は血走り、その声は悲痛な真実の響きを伴って冷たい風に乗り、最前線から後方の兵士たちの耳にまで確実に届いていく。

「目を開け! もう皆知れ渡っておるわ!! 我々カナンの民を奴隷とし、お前たちの命を弄んだこの男の非道を!!」

告発の刃が覇国の虚構を根底から切り裂く。

兵士たちの間に水を打ったような静寂が数秒だけ落ちた。

そして次の瞬間その静寂は取り返しのつかないほどの巨大な『ざわめき』となって荒野を震わせ始めた。