作品タイトル不明
第370話:『泥濘の死闘(後編) ――執念の決着』+
空気を裂く鋭い風切り音の直後、鈍くひどく生々しい音が荒野に重なった。
ゴードの剛剣がボルガスの構えた戦斧ごとその分厚い肩の装甲を叩き割る。
「が、ぁ……ッ!」
目を剥き出しにした巨漢の口から血の混じった空気が漏れた。自らの力だけを信じてきた男の巨体が糸の切れた 傀儡(くぐつ) のように膝を折り泥水の中へと前のめりに崩れ落ちる。
時を同じくしてエルラの冷酷な刃がゾルヴァーグの手首を捉えその毒刃を弾き飛ばしていた。返す刀で急所を打ち据えられた彼は声を上げる間もなく白目を剥いて地に伏す。
ユルヴァもまたバラクの猛攻の前に蛇腹剣を失い恐怖に歪んだ顔のまま 泥濘(ぬかるみ) へと叩きつけられていた。
砂塵がゆっくりと晴れていく。
数万の兵士が見守る平原の中央で三将軍は二度と立ち上がらぬ泥の塊と化していた。
荒い息を吐きながらその場に立ち尽くすバラク、ゴード、エルラ。彼らの体もまた限界をとっくに超えていた。全身は傷つき流れる血が足元の土を黒く染めている。だが彼らが放つ気迫は決して折れることのない強靭な鋼のようだった。
◇◆◇
その少し前。遥か後方、その決戦を丘の上から見下ろしていた私の視界がふっと柔らかな温もりに遮られた。
甘い花の香りが鼻をくすぐる。
セラさんの細く白い指が背後から私の両目をそっと覆い隠したのだ。
「……セラさん?」
視界を奪われた暗闇の中で私は小さく声を漏らした。
「……見なくてよろしいのです」
耳元で囁く彼女の声は微かに震えていた。
遠目とはいえ血飛沫が舞い人が叩き潰される光景。八歳の少女に見せるべきものではない。副官として、そして姉代わりとしての彼女の痛切なまでの庇護欲がその震える指先から伝わってくる。
私はその温かい手の甲に自分の小さな手を重ねた。
そしてゆっくりとしかし確かな力で彼女の指を押し下げる。
「……だめです」
再び光を取り戻した視界で私はまっすぐに戦場を見据えた。
「彼らは私の描いた盤面の上で命を懸けてくれています。……ならば私も見ないと。結末を見届けないとなりません」
それは安全な場所から駒を動かす『天翼の軍師』としての譲れない責務だった。この血と泥の重さから目を背ければ私はただの無責任な化け物に成り下がってしまう。
私の言葉にセラさんは少しだけ息を呑んだ気配がした。
だがすぐに彼女は私の傍らに並び立ち、その横顔にまるで春の陽だまりのような、どこまでも優しくそして誇らしげな微笑みを浮かべた。
「……不要ですわリナ様」
彼女は戦場から目を逸らさない私の小さな肩をそっと抱き寄せた。
「あの泥と血の記憶は代わりに私がしっかりと記憶させていただきます。……ですからあなたはただ彼らが掴み取った『勝利』という結果だけをその目に焼き付けてくださいな」
汚れ役は、悲惨な記憶は全て私たちが背負う。あなたはただ前だけを見て光の射す未来へ導いてくれればいい。
その深すぎる愛情と忠誠の言葉に私は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「……ありがとうセラさん」
私は彼女の温もりに守られながら大きく息を吸い込み戦場へと視線を戻した。
◇◆◇
平原は水を打ったような静寂に支配されていた。
覇国の将兵たちは自分たちの軍の象徴とも言える三将軍が泥にまみれて倒れ伏している現実を理解できずただ茫然と立ち尽している。
だがその静寂は長くは続かなかった。
「――情けないッ!!」
空気を引き裂く怒気に満ちた咆哮。
覇国軍の本陣から尋常ではないプレッシャーが膨れ上がった。空気が物理的に重みを増し肌を粟立たせるような殺気が戦場全体を覆い尽くす。
クルガンだ。
己の配下の無様な敗北に彼の自尊心は限界まで傷つけられ狂気じみた怒りとなって爆発していた。
「たかが小部族の老いぼれどもに無様に地を舐めおって! 俺が全てうち滅ぼしてくれようぞッ!」
大剣を肩に担ぎクルガンが巨体を揺らして前へ出る。
一歩踏み出すごとに大気がビリビリと震える。その瞳は完全に血走り獲物を引き裂くことしか考えていない猛獣そのものだった。
迎え撃とうとするバラクたちだがその足元はおぼつかない。三将軍との死闘で彼らの体力と気力はすでに限界を突破していた。クルガンの放つ圧倒的な覇気を前に体が鉛のように重く剣を握る手すら震え始めている。
(……まずい!)
丘の上の私も思わず息を呑んだ。今のバラクたちではあの化け物の一撃すら防げない。
クルガンが決戦の地に降り立つ。
殺戮の嵐が吹き荒れようとしたまさにその時――。
ふわりと。
死の気配が渦巻く平原の中央、クルガンとバラクたちの間に一枚の枯れ葉が舞い落ちるように細く頼りない影が立ち塞がった。
粗末な衣を纏い深く背を丸めた一人の老人。
いや過酷な労働と巧妙な変装で作り上げた「弱者の仮面」を被ったカナンの頭脳。エノクだった。
彼は武器も持たずただ両手をだらりと下げたまま、ゆらりと暴走する覇王の前に立っていた。
その双眸だけが老いの仮面を突き破り燃え盛る復讐の炎と冷徹な理性の光を宿して静かにクルガンを見据えている。