作品タイトル不明
第357話:『崩れる統率、沈みゆく泥舟』
灰色の空から、刺すような冷気を含んだ風が吹き下ろしていた。
前日の 黄昏時(たそがれどき) にもたらされた「見えざる死神」の恐怖は、一夜明けても覇国軍から消え去るどころか、冷え切った夜を越えてさらにどす黒く、深く浸透していた。
数万の軍勢は誰の号令を待つでもなく完全に足を止めていた。前へ進めば音もなく身体が弾け飛ぶ。その絶対的な恐怖が物理的な壁となって彼らの歩みを縫い留めていたのだ。
「……愚かな。見えない恐怖に怯え、この大軍が立ち往生などと」
陣の最前列へと視察に訪れたヴィクトル・フォン・ローゼンベルクは馬上で 忌(いまい) 々しげに舌打ちをした。
彼の周囲には盾をすき間なく並べて亀のように縮こまる兵士たちの姿がある。彼らの目は血走り、 虚空(こくう) を睨んだまま小刻みに震えていた。
覇王クルガンの怒りは頂点に達している。このままでは軍そのものが自重で崩壊する。そう判断したヴィクトルは自ら前線に 赴(おもむ) き、強引にでも進軍を再開させるつもりだった。
「何を怯えているのです。たかが数人の死人が出ただけでしょう。この圧倒的な数で押し潰せば、いかなる小細工も意味を為さない。……進みなさい。さもなくば、覇王陛下の剣が貴方たちの首を 刎(は) ねますよ」
ヴィクトルの氷のように冷たい声が前衛の部族長を打ち据える。
青ざめた顔の部族長は震える手で槍を握りしめ、背後の 督戦隊(とくせんたい) と眼前に広がる不気味な荒野とを交互に見比べた。
進まねば、ここで殺される。
「え、ええい……! 進め! 盾を構えて前へ出ろォッ!!」
部族長は半ばヤケクソのように叫び、愛馬の腹を蹴った。
渋々といった様子で兵士たちが重い足を引きずりながら一歩、二歩と土を踏みしめる。
ヴィクトルは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、その様子を冷ややかに見守っていた。
(恐怖など、より大きな恐怖で上書きすれば済むこと。……所詮は知恵なき獣の群れだ)
その次の瞬間だった。
――ドバァァァッ!!
ヴィクトルの視界の端で 凄(すさま) じい質量の破裂が起きた。
先陣を切って馬を走らせた部族長――その彼が 跨(またが) っていた馬の頭部が、まるで内側から爆弾が弾けたかのように原型を留めず粉々に吹き飛んだのだ。
同時に部族長が握りしめていた鋼の槍が 飴細工(あめざいく) のようにへし折れ、無数の鋭い金属片となって四方八方へと散乱した。
「……あ?」
頭を失った馬の首から噴水のように鮮血が噴き上がる。
部族長は悲鳴を上げる間もなく血の雨とともにどうと地面に投げ出された。
ビチャッ、と。
数十メートル後方にいたヴィクトルの 頬(ほお) に、生温かい肉片と熱を帯びた鉄の破片が張り付いた。
――キィィィンッ!
遅れて空気を切り裂くあの甲高い風切り音が彼らの頭上を通り抜けていった。
「…………っ!」
ヴィクトルの呼吸が肺の底で完全に凍りついた。
手綱を握る指先から感覚が消え去り、心臓が肋骨を突き破るほどの 早鐘(はやがね) を打ち始める。
何が起きた?
弓兵の姿も、投石機の影もない。
音すらも破壊の後に届く。
ヴィクトルの冷徹な頭脳がその現象の意味する絶望的な事実を弾き出した。
(防ぐ盾を構える時間すら与えられない……!)
彼はゆっくりと震える指で自らの 頬(ほお) に付着した血肉を拭い取った。
指先が信じられないほどに小刻みに震えている。
もしあの見えざる凶弾の狙いがほんのわずかでもずれていれば。もし標的が部族長ではなくこの自分だったとしたら。
自分は今頃あの馬のように頭から吹き飛び、惨めな肉塊となって土を汚していたのだ。
(……防ぎようがない。私もいつあのように弾け飛ぶか分からないのか……!)
初めて味わう自分のコントロールが全く及ばない「絶対的な死」の恐怖。
盤面を 俯瞰(ふかん) し常に安全圏から駒を動かしてきたヴィクトルの傲慢な前提が、音を立てて崩れ去った。
ここは「戦場」などではない。自分たちはただ見えない神のごとき視野の中で右往左往するだけの、惨めな「獲物」に過ぎないのだ。
「ひ、ひぃぃぃっ! やはり呪いだ! 悪魔の仕業だァァッ!」
「逃げろ! ここにいたら全員肉塊にされるぞ!!」
前衛の兵士たちが武器を投げ捨てて一目散に後方へと逃げ出す。
だが今のヴィクトルには彼らを罵倒し、引き留める余裕など一切なかった。彼の頭を占めていたのは強烈な生存本能と焦燥感だけだ。
(……ここは完全な死地だ。今すぐ、今すぐこの場から逃げ出さなければ……!)
彼は血の気の引いた顔で手綱を強く引き絞り、誰よりも早く本陣へと馬を走らせた。
◇◆◇
その日の夜。
軍の歩みは完全に停止し、荒野の野営地は深い絶望と混乱の底に沈んでいた。
目に見えぬ死神の恐怖は兵士たちの戦意を根こそぎ奪い去った。夜陰に紛れて脱走する者が後を絶たず、陣の至る所で足音を忍ばせる不穏な気配が 蠢(うごめ) いている。
覇王クルガンの巨大な天幕の前。
篝火(かがりび) がパチパチと不規則に 爆(は) ぜる中、前衛を任された将軍や族長たちが血走った目で醜い 諍(いさか) いを繰り広げていた。
「ふざけるな! 明日はお前たちの部族が先陣を切れ! 俺の部隊は今日、半数が逃げ出したんだぞ!」
「馬鹿を言うな! なぜ俺たちが死にに行かねばならん! そもそも、貴様が覇王陛下に上手いことを言って南下を急がせたのだろうが!」
「なんだと!? 貴様こそ、裏で帝国と通じているんじゃないのか!」
胸ぐらを掴み合い、剣の柄に手をかける有様。
恐怖は彼らを繋いでいた「覇国」という偽りの絆をあっさりと引き裂き、浅ましい自己保身の獣へと変えていた。
その騒ぎから少し離れた暗がり。
ヴィクトルは天幕の影に身を潜めながら、冷や汗をハンカチで拭っていた。
表面上はいつもの無表情を取り繕っているが、その眼鏡の奥の瞳にかつての余裕は 微塵(みじん) もない。
(……終わったな。もはやこの軍は機能しない)
族長たちの醜態を見下ろしながら、ヴィクトルは冷酷に現状を切り捨てた。
数万の大軍はただの巨大な標的の群れに過ぎない。このままここに留まれば飢えと内乱で自滅するか、見えない死神に一人ずつ狩られていくだけだ。
(沈みゆく 泥舟(どろぶね) に、最後まで付き合ってやる義理はない)
彼の脳内でいかにして自分だけが確実に、そして安全にこの死地から抜け出すか、その算段が恐るべき速度で構築され始めていた。
逃げるにしても数万の逃亡兵と一緒になっては目立ちすぎる。確実に南からの『目』を欺き、自分への追跡を断ち切るための巨大な「 囮(おとり) 」が必要だ。
ヴィクトルの視線が暗がりからゆっくりと、少し離れた後方に見えるクルガンの天幕へと向けられた。
(……未知の恐怖に怯える獣たちを従わせるには、絶対的な力を持つ『神』を前方に立たせるしかないですね)
薄い唇が夜の闇に紛れて 三日月(みかづき) の形に歪む。
自らを高みに置いていた狂王を最も都合の良い「矢除け」として最前線に引きずり出すための甘い毒の言葉を、彼は舌の上で静かに転がし始めていた。