軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:『賢人の戦慄、そして商人の算盤』 357.5

「おい、そこの下働き! そこで何をしている!」

覇国兵の荒々しい怒声が、吹き荒れる北風を裂いた。

遺棄(いき) された荷馬車の 残骸(ざんがい) の陰で、エノクはビクッと大げさに肩を跳ねさせると、ゴホゴホと喉を鳴らして泥の地面に這いつくばった。

「も、申し訳ごぜぇやせん……。火にくべる薪を探しておりまして……」

「チッ、こんな最前線までうろつく奴があるか! さっさと後方の補給陣地へ失せろ!」

蹴り上げられた雪混じりの泥を顔に浴びながら、エノクは平身低頭して後ずさる。

兵士が忌々しげに舌打ちをして立ち去り、その重い足音が風に掻き消された瞬間。

エノクを包んでいた「寒さに震える哀れな老人」の気配が、幻のようにスッと消え去った。

周囲の死角を鋭い 一瞥(いちべつ) で確認すると、泥にまみれた指先が岩肌のわずかな突起を捉える。

分厚いボロ 外套(がいとう) の下で、張り詰めたバネのような筋肉が音もなく躍動した。

足元の砂利一つ鳴らさず、エノクの身体は重力を無視したかのように岩壁を駆け上がり前線全体を見下ろせる岩棚の影へと滑り込んだ。

氷点下の冷気に晒されたその手は 煤(すす) と泥でわざと汚され、幾重にも 皺(しわ) が刻まれている。だが岩を鷲掴みにし、軽々と己の身体を引き上げたその 掌(てのひら) の握力に老いの影は微塵もない。

息一つ乱さず岩棚に伏せた彼の灰色の瞳だけが氷のように冷徹な光を湛え、眼下で狂奔する覇国軍の姿をじっと睨み据えていた。

覇王クルガンの地を這うような怒号。

それに急き立てられるようにして、親クルガン派の部族長が馬を進め、空虚な声で兵を怒鳴り散らしている。

そして――その重苦しい均衡を「絶望」へと叩き落とした、あの一瞬。

パァンッ!!

乾いた、あまりに鋭い破裂音。

静寂が訪れる間もなく、最前列で叫んでいた部族長の右肩がまるで内側から赤い絵の具をぶちまけたかのように無残に弾け飛んだ。

部族長が悲鳴を上げて落馬し、数拍遅れて空気を鋭利に切り裂く甲高い風切り音が耳を打つ。

(……何だ。今、何が起きた?)

矢ではない。投石でもない。

彼の長年の経験と知識のどの引き出しを探しても、該当する現象が見当たらない。

やがて前衛全体がパニックに陥り、その日の進軍が中止となった後。

野営地が混乱と恐怖に包まれる中、エノクは一人音もなく動き出していた。

彼は血の匂いを辿り、先ほど最初の犠牲者が出た場所へと向かう。周囲の兵士たちが「呪いだ」「天罰だ」と怯えてその場を避ける中、エノクだけが地面に這いつくばり何かを探していた。

(……天罰などありはしない。必ず何かの『 理屈(からくり) 』があるはずだ)

彼の指先が血に濡れた土の中からごく微かな金属片を拾い上げる。それは何かに弾かれて砕けた何かの破片だった。

次に彼は風向きと犠牲者が倒れた角度を計算する。

商人の勘とかつて学んだ 幾何学(きかがく) の知識。それが何かが飛来したであろう方角を一本の線として指し示した。

彼は誰にも気づかれぬよう影から影へと移動し、その線の先を目指した。

野営地を抜け、荒野を数百メートル。やがて兵士たちが射線上にいたであろう場所からさらに百メートル以上離れた場所にそそり立つ一つの巨大な岩の前で、彼は足を止めた。

岩肌に不自然なほど新しく、そして深い亀裂が走っている。

エノクは震える手と道具を用いて、その亀裂の中から熱を帯びた歪な金属の塊をほじくり出した。

ずしりと重い、流線形のタングステンの塊。まだ熱く、彼の指先を焼く。

(……こんな金属の塊が何処からとも判らぬ地から空を飛び、人の体を……?)

背筋を氷のような 悪寒(おかん) が走り抜けた。

こんなものがもし現実するものなのだとしたら。

城壁も重装鎧も熟練の剣技も、もはや何の意味もなさない。

戦のルールが今、根底から覆されようとしている。

(いっそ……いっそ本当にあの嬢ちゃんの『天罰』であったなら、まだ救われる)

エノクは天を仰いだ。

人知を超えた神の怒りならば祈ることも、赦しを乞うこともできる。

だかもしこれが人の手によって生み出された『技術』なのだとしたら。

それはこの世に新たな地獄が生まれたことと同義だ。

(……いかんな。わしともあろうものが混乱している)

彼は深く息を吸い込み、無理やり思考を冷静な商人へと引き戻した。

◇◆◇

その日の夜。

エノクが潜む天幕の影に、カナンの同胞たちが亡霊のように次々と集まってきた。彼らの顔は恐怖に引き攣り、その声は囁き声さえも震えていた。

「老師! ご覧になりましたか、昼間の『天罰』を!」

「ああ。……バラク様と繋がる我らの部族は老師からの『先陣には決して立つな』という密命のおかげで誰一人として被害はありませんでした。……ですがあの光景は……」

一人の若い密偵が、感極まったようにエノクの前に膝をついた。

「老師……! 難を逃れた者たちから感謝の言葉が……! 彼らは我らカナンの民が『天翼の軍師様と通じ、天罰から守ってくれた』と心から信じております! もはや畏敬の眼差しです!」

その報告にエノクの脳裏で何かがカチリと音を立てて繋がった。

恐怖。畏敬。そして感謝。

「……うむ」

エノクはゆっくりと顔を上げた。

その顔から先程までの動揺は綺麗に消え失せ、代わりに 老獪(ろうかい) な商人の底知れぬ笑みが浮かんでいた。

「……これは……最大限に利用させてもらう方が良さそうじゃな」

「……え?」

「嬢ちゃんはとんでもない力を持っておるのう」

エノクは独り言のように呟いた。

「え? 老師、先程は『そんな力などあるはずがない』と……」

「ほっほっほ。若いのう」

エノクは若い密偵の肩をポンと叩いた。

「それがあるかどうかなどどうでもええのじゃ。……『そうあった方が利益がデカい』。ただそれだけでよかろう?」

エノクは立ち上がり、同胞たちを見渡した。

「良いか、皆の者。この『天罰』は我らが『天翼の軍師』様の神のごとき御力だ。そしてその力は我らカナンの民を信じる者にのみ慈悲をもたらすのだと、北の全土に知らしめよ」

「さあ、カナンの同胞よ。虎の威は使いたい放題じゃ。遠慮する必要は無さそうじゃしな」

彼の灰色の瞳がランプの灯りを反射して、ギラリと光った。

絶望的な恐怖は彼の商人としての嗅覚によって、カナン復興のための最高の「商品」へと姿を変えたのだ。

北の荒野に新たな『神話』が生まれようとしていた。