軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第241話:『それぞれの誓い、北への旅路(リナの視点)』

孤児院での二日目の午後。アガサ院長の小さな執務室は、窓から差し込む陽光に埃が舞い、インクと古い紙の匂いに満ちていた。壁の染みも、机の傷も、何もかもが懐かしい。

「……リナ。あなたがあの時、整えてくれたおかげで本当に助かっています」

院長の皺の刻まれた指が、私が残した帳簿の数字を愛おしそうになぞる。必死で考えた仕入れルートが、今もこの家を支えている。その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「院長先生。ゴードンさんのお野菜は美味しいですが、冬は作物が限られます。この街の市場だけでは、食材の種類にも限界が」

「ええ、そうですわね。ですが、これ以上は……」

不安げに言葉を濁す院長に、私は悪戯っぽく微笑んでみせた。

「――大丈夫です。私に、考えがありますから」

私は広げた羊皮紙の地図の上に、指で一本の線を引いた。この城塞都市と、今まさに建設が始まろうとしている『中立経済特区』とを結ぶ、まだ存在しない道を。

「もうすぐ、この先に新しい街ができます。帝国と王国、そしてヴェネツィアからもたくさんの珍しい食材が集まる、それはそれは賑やかな場所が」

確信に満ちた私の声に、院長はただ目を丸くするばかりだった。

「その街ができたら、私が必ずこの孤児院とも繋がるようにしてみせます。そうすれば、冬でも暖かい地方の果物や、もっと栄養のあるお肉が今よりずっと安く手に入るはずです」

私は最後に、いたずらっぽく片目をつぶった。

「子供たちには、もっと美味しいものを、お腹いっぱい食べさせてあげたいですから。……だから、それまで待っていてくださいね」

院長は何も言えず、ただ私の手を強く握りしめ、静かに涙をこぼした。

◇◆◇

同じ頃、日が傾き始めた中庭では、別の戦いが繰り広げられていた。

執務室の窓から見下ろすと、ゼイド様がヴォルフラムさんに稽古を申し込んでいるところだった。

「ヴォルフラム殿! もしよろしければ、一本!」

結果は、火を見るより明らかだった。

ゼイド様が気合と共に踏み込む。若々しく鋭い打ち込みが風を切る。だが、ヴォルフラムさんは動かない。木の枝が頬を掠める寸前、彼女の身体が柳のようにしなり、最小限の動きでそれを回避した。

「なっ!?」

驚きに体勢を崩した一瞬、ヴォルフラムさんの枝が生き物のように彼の足元を払い、ゼイド様は無様に土埃を上げた。

「もう一本!」

顔を赤らめ、何度も何度も打ち込んでいく。だが、何度やっても土の匂いを嗅ぐ結果は同じだった。

やがて息も絶え絶えになり、泥だらけで大の字に寝転がる彼の元へ、私は水の入ったカップを持って歩み寄った。

「……お疲れ様です、ゼイド様」

「……くそっ……! なんだ、あの人は……! 全く、歯が立たない……!」

悔しさに顔を歪める彼に、私は苦笑する。

「仕方ありませんよ。ヴォルフラムさんは、帝国最強と謳われる将軍に直々に鍛えられた方ですから」

その言葉に、ゼイド様は目を見開いた。彼は泥だらけのまま起き上がると、水を受け取り一気に飲み干す。

「……そうか。……ありがとう。……目が覚めた」

彼の瞳から悔しさの色が消え、代わりに遥か高みを見つけた登山家のような、燃える闘志の光が宿る。

「ヴォルフラム殿! もう一度、お願いします!」

その真っ直ぐな瞳に、ヴォルフラムさんもまた、静かに頷き返した。

◇◆◇

夢のような時間は、あっという間に過ぎていく。

子供たちの寝顔を見つめるたび、この時間が永遠に続けばいいと願ってしまう。食堂の他愛ない会話、中庭に響く声。その一つ一つが心を温め、同時に別れの時が近いことを告げる刃となって、冷たく胸を締め付けた。

出発の朝。門の前は、昨日までの笑顔が嘘のような、涙と鼻水の海だった。

「行っちゃ、やだ……」

アンナが私の服の裾を掴んで離さない。その小さな手は、私の決意を鈍らせるには十分すぎるほど強く、温かい。

「うわあああん、リナ姉ちゃんのいじわるー!」

トムが声を上げて泣きじゃくる。その涙に、胸が張り裂けそうになる。

「……大丈夫」

私はしゃがみ込み、二人の小さな体を、骨がきしむほど強く抱きしめた。

「必ずまた帰ってくるから。……今度は、世界一美味しいケーキを持って。だから、泣かないで」

無理やりその手を振りほどき、私は馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。

車輪が軋み、馬車がゆっくりと動き出す。

窓の外で、遠ざかっていく小さな手。いつまでも、いつまでも、こちらに向かって振られている。

私はもう、振り返らなかった。

ただ、固く握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込む痛みだけを感じていた。

馬車が城門をくぐり、北へと向かう街道に出る。

私は、固く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。

手のひらに残る、赤い三日月の跡。

その痛みが、私の進むべき道を、静かに、しかし確かに指し示していた。