作品タイトル不明
第229話:『英雄の休日と塔上の誓い』
翌日、窓から差し込む柔らかな朝日が、銀食器をきらりと反射させる。至れり尽くせりの生活に、まだ肌が馴染まない朝。
朝食の席で、私は向かいに座るセラさんに提案した。
「セラさんも、たまにはご実家に顔を出されてはどうですか? ご家族もきっと、心配されていますよ」
カチャリ、と彼女の持つナイフの音が止まる。完璧な微笑みの下にほんの一瞬、影が差したのを私は見逃さなかった。だが、それはすぐにいつもの完璧な副官の表情に戻る。
「お心遣い、感謝いたします。ですが、私の家族はここに。……あなた様のお側に仕えることこそが、今の私の全てですわ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……でしたら、今日は一緒に街へ出かけましょう。私も少し、息が詰まりそうでした」
私は努めて明るく言う。
「そして、セラさんのご両親には、ここを発つ前にきちんとご挨拶させてください」
「はい、喜んで。……では、今日は帝都をゆっくり満喫して、夕食までには戻りましょうね」
セラは悪戯っぽく微笑んでみせていた。
◇◆◇
帝都は、生命力に満ち溢れていた。
磨かれた石畳の道を、私とセラさん、そして一歩後ろを固めるヴォルフラムさんと共に歩く。行き交う人々の顔には明るい笑みが浮かび、子供たちの屈託のない声が空に響く。市場からはスパイスの刺激的な香りと、焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗って届いた。
その一つ一つが、私の胸を温かいもので満たしていく。
(……私が守りたかったものは、これだ)
心から、そう思えた。
ただ、気がつけば、その平和な光景の裏側には、見慣れた影たちが潜んでいるのを感じる。
大道芸人の人だかりに紛れて。噴水の縁で鳩に餌をやる老婆。きっとゲッコーさん配下の『影』であることは、なんとなく分かる。それは気のせいじゃない筈だ。私なんかにそこまでしなくても...いつもありがとう。
先に進んでいくと、街角に、ひときわ大きな人だかりができていた。
その中心で、一人の吟遊詩人がリュートを奏で、朗々と歌い上げている。
「――聞け! 我らが『天翼の軍師』の英雄譚を! 銀の髪を天になびかせ、魔王の軍勢を一瞬で薙ぎ払う、その神の如き智謀を!」
思わず足を止めたが、以前ほどの羞恥心は湧いてこない。
(……うん。これはもう慣れたし、ここまでくるともうどこかの別人の話だ。私とは関係ない、架空の物語)
そう割り切ると、案外すんなりと受け入れられる。
「……セラさん。少し、面白そうですね。どんなものか、敵情視察も大事かもしれません」
好奇心半分、面白半分で、私は近くの劇場を指さした。
「リナ様がそうおっしゃるなら」
セラは優雅に微笑み、ヴォルフラムさんは「はっ! 素晴らしいお考えです!」と目を輝かせている。
私たちは、吸い込まれるように劇場のビロードのカーテンの奥へと足を踏み入れた。
――そして、私はすぐにその判断を心の底から後悔した。
薄暗く埃っぽい空気の中、舞台上で繰り広げられていたのは、私の想像を遥かに絶するスペクタクルだった。
キラキラと輝く効果音と共に、私をモデルにした女優が銀髪を風になびかせ、ありえないほど優雅な剣さばきで悪役たちをなぎ倒していく。剣を振るうたびに薔薇の花びらが舞い、決め技を放てば七色の光が舞台を包んだ。
激しい戦闘が終わり、舞台が一度暗転する。やがて悲しげなリュートの音色と共に再び明かりが灯ると、そこには戦いで傷つき、嘆き悲しむ民衆の姿があった。その時だ。舞台の奥から柔らかな光が差し、一人の少女が静かに歩み出てきた。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべた、私服姿の私に酷似した子役だった。
「おお、慈愛の女神リナ様!」
民衆役の役者たちがひざまずく中、その少女――女神は傷ついた人々の額にそっと手を触れる。すると、彼らの傷はたちまち癒え、皆が立ち上がって女神を讃え始めたのだ。
(な……なにあれは……!?)
客席からは感動のため息とすすり泣きが聞こえ、私の隣ではヴォルフラムさんが「おお……リナ様の慈悲深さ、見事に表現されている……!」と涙ぐんでいる。
もはや羞恥心は臨界点を突破した。そして物語は、ワイヤーで吊るされた女優が天高く舞い上がり、光の槍を投げつけて魔王を浄化するクライマックスへと雪崩れ込んでいった。
客席からは割れんばかりの拍手と歓声が上がる。
客席からは幾度も割れんばりの拍手と歓声が上がり、私の隣ではヴォルフラムさんが拳を握りしめ、「おお……!」と感嘆の声を漏らしている。
(……む、無理……! 恥ずかしすぎて死ぬ……!)
私は途中で耐えきれず、そっと席を立とうとした。
「セラさん……で、出ましょう……お、お腹が痛くなってきましたので!」
小声で囁き、逃亡を図ろうとした、その瞬間。
ガシッ、と。
隣のヴォルフラムさんに、万力のような力で腕を掴まれた。
「リナ様! 素晴らしいです! この後の空中戦、目が離せません! 伝説の竜との一騎打ちが、今まさに始まろうと!」
その純粋な憧憬に満ちた、キラキラした眼差し。
「……あ……はい……」
私はもはや抵抗する気力を失い、再びビロードの椅子に深く沈み込んだ。
◇◆◇
馬車が石畳を叩く規則正しい音を聞きながら、私は窓の外に流れる帝都の街並みをぼんやりと眺めていた。劇場の熱狂から解放されたものの、魂が半分抜け出たようだ。
気が付けば馬車は、帝都の街の中では一番高い時計塔の前で停まった。
「ここで少し、休みましょう」
セラさんの提案に頷くと、いつの間にか控えていたゲッコーさんが、普段は固く閉ざされている塔の扉を静かに開けた。
ひんやりとした石の螺旋階段を上りきると、心地よい風が頬を撫でる。
眼下には、まるで宝石箱をひっくり返したような帝都の全景が広がっていた。煉瓦色の屋根が波のように連なり、大通りを蟻の列のような人々と馬車が絶え間なく流れていく。遠くには陽光を浴びて白く輝く皇宮、さらには白い帆を張った船が浮かんでいるのが遠くに見える。市場の喧騒、教会の鐘の音、子供たちの笑い声が混じり合い、一つの大きな生命の息吹となってここまで届いていた。
そしてそこには、信じられないことに、白いテーブルクロスのかかった小さなテーブルと椅子が用意され、湯気の立つコーヒーが二人分、置かれていた。ゲッコーさんが執事然として控え、数人の『影』が音もなく後片付けをして闇に消えるのが見えたが、私は気づかないふりをした。
「……すごい」
「ゲッコーにお願いしておきました。ここからなら、この街がよく見えるので。」
温かいカップを手に、セラが微笑む。
劇場で負った精神的なダメージが、この壮大な景色と温かいコーヒーにゆっくりと癒されていく。
そうだ。私は、この人たちを守りたいのだ。
私は強くならなければ。英雄の仮面を被るだけではなく、私自身の力と、きちんと向き合わなければ。
風が私の髪を優しく揺らす。私は眼下に広がる愛しい世界を胸に刻みつけ、静かに、そして強く、そう誓った。