作品タイトル不明
第230話:『北への道標と、とんだ縁談』
その夜、屋敷の作戦室はランプの灯りで満たされていた。壁に掛けられた巨大な北部の地図を前に、私たちは最後の打ち合わせを行っていた。
「三日後、夜明けと共に出発します」
私が指し棒で地図上のルートをなぞる。
「まずは帝都を発ち、南東へ。建設中の経済特区を視察します。計画の進捗と問題点をこの目で確認します」
次に指は北西へと動く。
「その後、私が育った孤児院へ。数日滞在します。これは私の個人的な目的ですが、ご了承ください」
「リナ様の息抜きも重要な任務であります!」
ヴォルフラムが力強く頷く。
「それから進路を北へ。技術研究所でトラックの増産状況を確認し、最終目的地である北部方面軍の拠点、北壁の砦へと向かいます」
私はそこで一旦言葉を切り、二人を見た。
「問題は、ここから先です。北壁の砦より先は、現在の最新の状況は詳しくは判りません。現地の情報を得てから、先の進路を判断します」
「なるほど。理に適った道筋ですわ」
セラが腕を組み、思案顔で口を開く。
「各拠点での滞在日数などを詳細に決めましょう。特に北壁の砦との連絡手段は、複数確保しておくべきです。万一の事態に備えなければ」
「はっ! 道中の警護計画については、既に複数パターンを想定済みです」
ヴォルフラムが胸を叩く。
「街道沿いは比較的安全ですが、山賊が出没する地域もあります。護衛の配置は私が責任をもって。特に孤児院では不特定多数と接触するため、最大限の警戒態勢を敷きます!」
頼もしい二人の言葉に、私は頷いた。
「ありがとう。セラの言う通り、連絡手段は密に。ヴォルフラム、警護計画はあなたに一任します。信頼しています」
ランプの炎が、私たちの決意を静かに照らしていた。
◇◆◇
出発の前日、私は慌ただしく皇宮へと向かった。
まず通されたのは、皇妃セレスティーナ陛下のお茶会。
「まあ、リナ。北へ向かうのですって? 気をつけて」
「はい。ありがとうございます、皇妃陛下」
「そういえば、うちのユリウスったら、最近剣の稽古に一層熱が入って。あなたに釣り合う立派な男になるんだ、なんて息巻いているのよ」
「そ、そうですか……」
(絶対そんなこと言ってない……!)
私は引きつった笑みを浮かべ、そのご厚意だけは丁重にお断りした。
次に宰相閣下の執務室へ向かうと、「くれぐれも、無茶はしないように」と、父親のような心配のこもった釘を刺された。
廊下で偶然すれ違ったのは、財務官僚のカイさんだった。その顔はげっそりとやつれ、目の下の隈はもはや化粧の域に達している。
「か、カイさん! 大丈夫ですか!?」
「は、はっ! 軍師殿! ご心配には及びません! このカイ・シュルツェ、不眠不休で計画を軌道に乗せてみせます!」
その目は、ぎらぎらと異様な光を放っていた。
(……ダメだ、この人。強制的に休ませないと、そのうち倒れる……!)
私は踵を返し、再び宰相閣下の元へ。「カイさんに有能な補佐を数名つけ、強制的に休暇を取らせてください」とお願いしておいた。
そして、最後に向かったのは、セラさんのご実家、オーレリア邸だった。
貴族街の一角に佇む、壮麗だがどこか古風で厳格な空気を纏う屋敷。その重厚な扉の前に立つだけで、胃がしくりと痛む。
「リナ様、本当に、本当によろしいのですか……?」
セラさんは心底嫌そうな顔で、何度も私の袖を引いた。
「ええ。これは、筋を通すということです」
私はきっぱりと告げ、銀の仮面をつけ直す。『天翼の軍師』として、彼女のご家族に謁見するのだ。
通されたのは、歴代当主の肖像画がずらりと並ぶ、息が詰まるような応接間だった。
上座には、背筋を伸ばしたセラさんの父親――オーレリア伯爵が彫刻のように厳しい顔で座っている。その隣で母親が心配そうにハンカチを握りしめ、少し離れた場所では兄君が、値踏みするような鋭い視線をこちらに向けていた。
(……完全に、娘の結婚相手が挨拶に来た時の空気じゃないですか、これ……!)
私は意を決し、練習してきた口上を述べ始めた。
「日頃より、セラ・オーレリアには大変助けられております。彼女は、私の剣であり、盾であり、何よりかけがえのない……」
ごくり、と唾を飲み込む。
「――半身です」
その言葉を紡いだ瞬間、部屋の空気が凍りついた。
オーレリア伯爵の厳しい顔が驚愕に見開かれ、母親は「まあ!」と小さく口元を覆う。兄君に至っては、持っていたティーカップを取り落としそうになっていた。
隣で、セラさんが「あ……」と絶望的な声を漏らすのが聞こえる。
(しまった! 言葉のチョイスを間違えた!)
だが、もう後戻りはできない。私は腹を括った。
「つきましては、この度の北への長旅……どうか、セラさんを、私にお貸しいただけないでしょうか!」
私はその場で深く、深く頭を下げた。銀の仮面が床に触れんばかりだった。
長い、長い沈黙が流れる。
やがて、オーレリア伯爵が、震える声で口を開いた。
「……こ、こちらこそ……! あの、頑固で、融通の利かぬ娘が……!」
いつの間にか、彼の目には涙が浮かんでいる。
「どうか! どうか、末永く……! 娘のこと、よろしくお願い申し上げます!」
彼は席を立つと、私の手を両手でがっしりと掴んだ。母親も兄君も、涙ながらに「よろしくお願いいたします!」と頭を下げている。完全に、セラさんを嫁に出す雰囲気になってしまった。
「……あの、皆様……」
私が何とか誤解を解こうとするも、もう遅い。
「ささ、軍師殿! どうか、お座りください! 固い話はこれくらいにして、さあ、あちらの庭で淹れたての紅茶でも! 娘の小さい頃の話など、ゆっくりとお聞かせいたしましょう!」
伯爵に促され、私はなすすべもなく再び席に着く。背後で、セラさんが顔を真っ赤にして「お父様!」と叫んでいる声が、どこか遠くに聞こえた。
背中を押されるようにしてオーレリア邸を辞した頃には、空はもう美しい夕闇に染まっていた。
屋敷へと向かう馬車の中、セラさんはぷいと窓の外を向いたまま、一言も口を利いてくれなかった。ランプの灯りに照らされた彼女の頬が、まだ少し赤い。カタン、コトンという車輪の音だけが、気まずい沈黙に響いていた。