作品タイトル不明
第228話:『蝶の仮面と金色の鳥籠』
終わりの見えない衣装合わせ――地獄のファッションショーがようやく幕を下ろす頃には、窓の外は夕闇に包まれていた。
鏡に映る自分の顔は青白く、まるで魂を抜き取られた人形のようだ。そのぐったりとした私を、侍女たちが手際よく最後の衣装に着替えさせていく。数多の候補の中から、私が最終的に選び取った一着――『 夜の蝶(ノクチューン) 』。
「……本当によろしいのですか、リナ様」
背後から、セラが心配そうな声色で問いかける。「『戦場の薔薇』の方が、陛下の好みには合うかと存じますが……」
「いいんです」
私はきっぱりと首を横に振った。
機能性を重視した、夜の闇より深い濃紺の騎士服風ドレス。銀糸で縁取られた袖口が、ランプの光を静かに反射する。素顔を隠す蝶の仮面を手に取ると、ひんやりとした金属の感触が指先に伝わった。これなら、何とか耐えられそうだ。
「『軍師』は、華やかである必要はありませんから」
その言葉に、皇妃陛下が満足げに微笑まれた。
「ええ、良い判断ですわ、リナ。その神秘的な雰囲気は、かえって威厳を感じさせますもの」
隣ではユリウス皇子が、キラキラとした瞳でこくこくと何度も頷いている。彼の目には、もう尊敬の色しか浮かんでいない。
そこへ、侍女長に任命されたクララが、足音一つ立てずに進み出た。
「皇妃陛下。皇帝陛下へのご報告の刻限でございます。リナ様をお連れするよう、仰せつかっております」
「あら、もうそんな時間。では、参りましょうか」
皇妃に促され、私は重い鉛を引きずるような足取りで、皇帝陛下の個室へと向かった。
◇◆◇
重厚な扉が開かれると、ランプの灯りが揺れる静かな部屋が広がっていた。皇帝陛下は一人、窓辺に立ち、帝都の夜景を見下ろしている。
私たちの気配に気づき、彼がゆっくりと振り返る。そして、私の新しい姿を認めた瞬間、その目が驚きにわずかに見開かれた。感嘆、そしてどこか遠い日を懐かしむような複雑な色が、その深い瞳の奥で揺らめいている。
やがて、彼はふっと息を吐き、絞り出すように呟いた。
「…………立派に、なったな」
その声は、ひどく穏やかで、微かに震えていた。
「そなたを初めて見た時は、まだ泥に塗れた雛鳥のようであったのに……。今や、帝国を守る気高き翼そのものよ……」
皇帝は少し照れくさそうに咳払いを一つすると、その顔には厳格な支配者ではない、ただの父親のような温かい笑みが浮かんでいた。
「陛下……」
思いがけない言葉に、喉の奥が詰まる。胸の内に、じんわりと熱いものが広がっていくのを感じた。
「……さて!」
皇帝は気を取り直すように、パン、と手を叩いた。
「そなたに、新たな『城』を用意しておいたぞ」
「……城、でございますか?」
「うむ。帝都の一等地にある、元は伯爵が住んでいた屋敷だ。警備は近衛の中でも最高の者たちを揃えた。皇妃が選んだ『信用できる』侍女たちも常駐させておる。そこを、そなたの帝都での拠点とするが良い」
あまりに壮大な申し出に、私は慌てて首を横に振った。
「そ、そのような! 大げさです、陛下! 私にはもったいのうございます!」
「これは命令だ」
有無を言わせぬ声が、私の辞退を封じ込める。
「『天翼の軍師』には、それにふさわしい威厳が必要なのだ。……分かるな?」
その真剣な眼差しに、私はもう何も言えなかった。
◇◆◇
こうして私は、半ば強引に、新しい「家」へと案内された。
大理石の門を馬車でくぐると、そこは伯爵邸というにはあまりに広大で、私には本物の城のように思えた。手入れの行き届いた庭園では、月明かりを反射して池が静かに銀色の水を湛えている。
玄関ホールでは、侍女たちが完璧な一列に並び、寸分の狂いもない角度で深々と頭を下げ、私を出迎えた。
その筆頭に立つ侍女長クララは、穏やかな微笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には底の知れない光が宿っていた。彼女は私の前に進み出ると、流れるような所作で一礼した。
「お待ちしておりました、リナ様。わたくし、この屋敷を預かりますクララと申します。以後、お見知りおきを」
ふと、クララが私の影に控えるゲッコーに視線を移す。そして、ごく自然に、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「――ゲッコー殿。長旅でお疲れでしょう。別室にお食事と寝床の用意がございます。リナ様のお側は、今宵より我らが務めさせていただきます」
それは丁寧な労いの言葉でありながら、同時に「ここから先は我々の領域だ」という、プロ同士の縄張り宣言でもあった。
ゲッコーは何も答えず、ただ無言でクララを見つめ返す。二人の間で、目に見えない火花が散り、空気が張り詰めるのを肌で感じた。
やがて、ゲッコーが静かに頷き、音もなくその身を翻すと、まるで影が闇に溶けるようにその場を去っていく。
(……ここは、戦場よりも息が詰まるかもしれない)
背中に冷たい汗が伝った。
まず案内されたのは、窓の外に美しい夜の庭園が広がる壮麗な食堂。長いテーブルの、主賓が座るべき上座に、私の席だけがぽつんと用意されている。その両脇に、少し距離を置いてセラとヴォルフラムの席が設けられていた。
「さあ、リナ様。どうぞ」
クララに促され、緊張で強張る体で席に着く。目の前には、一体どれから使えばいいのか見当もつかない銀食器がずらりと並んでいた。
やがて、銀の盆に乗せられた料理が、音もなく運ばれてくる。「食べきれる量だけで」と伝えたはずなのに、目の前には繊細なソースがかけられた魚料理、柔らかな若鶏のロースト、彩り豊かな温野菜のプレートが並んだ。どれも量は控えめだが、それでも私にとっては紛れもないフルコースだ。
(……まだ、多い……)
心で呟きながら、恐る恐るナイフとフォークに手を伸ばす。
その様子を察したのか、向かいのセラが、まるで教科書のお手本のように、音もなく滑らかな手つきでスープスプーンを手に取った。その優雅な所作に思わず見惚れてしまう。
隣のヴォルフラムは、そのセラの動きを横目で追いながら、少しぎこちない手つきで必死に真似をしていた。カチャリ、とスプーンが皿に当たる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
私は孤児院育ちだ。貴族のマナーなど知る由もない。前世の記憶を頼りに、なんとか外側のフォークから…と指を伸ばした、まさにその時。
「リナ様、こちらの魚料理には、こちらのフォークが口当たりもよろしゅうございます」
いつの間にか背後に影のように立っていたクララが、囁くように、しかし決して恥をかかせない絶妙な間で教えてくれる。そのあまりに自然な助言に、私はただ頷くことしかできなかった。
食事は常に数人の侍女に囲まれ、着替えはもちろん、髪を梳かすことさえも彼女たちの仕事だった。
そして、大理石でできた豪奢な湯殿に案内され、私が一人になれる最後の砦、脱衣所に足を踏み入れた瞬間。
「リナ様、お背中を流させていただきます」
クララを筆頭に、数人の侍女たちが当然のように入ってきたのだ。
「い、いえ! 結構です! 一人で入れます!」
「まあ、そのような。万が一、湯あたりでもなされたら一大事ですわ」
「いりません! 大丈夫ですから!」
私の必死の抵抗も、彼女たちの完璧な笑顔の前では無力だった。湯着を着せられ、花びらが浮かぶ湯船に浸かり、香りの良いオイルで手足のマッサージまで施される。高級スパのような至れり尽くせりのもてなしに、抗う気力は次第に溶かされていった。
心地よいまどろみの中、気づけば私は、雲のようにふかふかのベッドの上で眠りに落ちていた。
翌朝、小鳥のさえずりが微かに聞こえる。
天蓋の柔らかなレース越しに差し込む朝日に目を細めながら、私は天井の豪華な装飾をぼんやりと眺めた。絹のシーツが肌に心地よい。
(……考えないようにしよう。うん、考えすぎは、精神によくない……)
私は深呼吸を一つすると、諦観と共に、この新しい日常を受け入れることにした。