作品タイトル不明
第227話:『銀糸の檻、女神の降臨』
皇宮の一室は、もはや衣装室という言葉では生ぬるい、絢爛たる劇場と化していた。
壁という壁が鏡で覆われ、天井のシャンデリアから放たれるランプの光を幾億にも乱反射させる。その光の粒子が舞う部屋の中央、深紅の絨毯の上で、皇妃セレスティーナ陛下が観劇の主役のように肘掛け椅子に深く身を沈め、優雅に扇を揺らしていた。
その隣では、セラさんもまた完璧な淑女の微笑みを浮かべている。テーブルに並ぶのは、立ち上る湯気も芳しい紅茶と、宝石のように艶めくプチフール。これから始まるショーを、心待ちにしているのは明らかだった。
その一方で、厚いカーテンの向こう側は、さながら戦場であった。
「リナ様、もう少しです! あと少しだけ息を止めて!」
肌着の上から、侍女たちの容赦ない手でコルセットが限界まできつく締め上げられる。
(きっ……! 息が……! 内臓が、何か、出る……!)
骨が軋み、視界が白む。か細い抗議は、侍女たちの熱狂的な囁きにかき消された。冷たく滑らかな絹のドレスが、幾重にもその身を包み込んでいく。
コン、コン。
控えめなノックと共に、ユリウス皇子が部屋に入ってきた。
「母上、お呼びと伺いましたが……これは……」
室内のあまりの華やかさと、張り詰めた異様な雰囲気に、彼は思わず言葉を失い、入り口で立ち尽くす。
「あら、ユリウス。いらっしゃい。ちょうど良いところへ来たわね」
皇妃陛下は少しも悪びれず、自分の隣の空席を手で示す。「さあ、あなたも特等席へどうぞ」
何が何だか分からないまま、皇子は母に促されて席に着いた。
やがて、部屋の奥、カーテンで仕切られた着替えの間から、侍女頭の澄み切った声が静かに響いた。
「――皇妃陛下、皆様。お支度が整いましたわ。今宵、地上に舞い降りた月の女神を、どうぞその目に」
その声が合図だった。
鏡で自らの姿を確認する暇もなく背中を押され、私は光の洪水の中へと、まるで祭壇に捧げられる生贄のように、ふらつきながら歩み出た。
最初に纏わされたのは、『 月の女神(アルテミス) 』。
私が覚束ない足取りでお立ち台に上がると、侍女頭がその傍らに寄り添い、皇妃たちに向かって朗々と解説を始める。その声は、高名な鑑定士が至高の芸術品を語るかのように、滑らかで自信に満ちていた。
「ご覧くださいませ。こちらは純白と銀糸を基調とし、リナ様の神秘性と高潔さを最大限に引き出す一着にございます。歩くたびに月光そのものを織り込んだかのように繊細にきらめく生地は、このタイミングで、奇跡的に献上されましたもので、特別に取り分けて使用させて頂きました、かの幻の『 月光絹(ルナ・シルク) 』。そしてこのヴェールは、特別な施工により、リナ様が動かれるたび、そのお姿の周りに神々しい 靄(もや) が立ち上る趣向にございますわ」
「まあ……! なんて、神々しい……!」
観覧席から、皇妃陛下や侍女たちの感嘆のため息が漏れる。
ユリウス皇子もまた、目の前の光景に完全に言葉を失っていた。神話の挿絵から抜け出してきたかのような、触れることさえ許されぬ美しさに、ただ頬を染めて呆然と見つめている。
私は溢れ出す羞恥心に耐えきれず、ただ俯くだけだった。
カーテンの奥に引っ込むや否や、数人の侍女に囲まれ、嵐のような着替えが始まる。
その喧騒をBGMに、観覧席ではセラさんと皇妃陛下が優雅な批評会を繰り広げていた。
「いかがでしたか、陛下。あの一着は、リナ様の持つ『奇跡』の側面を表現するのに最適かと存じますわ」
「ええ、セラ。完璧よ。けれど、少し神聖すぎたかしら。もう少し、人間味のある『奥深さ』も見てみたいわね」
そんな会話が聞こえてくる中、私は再びお立ち台へと押し出された。
次に纏ったのは、『 夜の蝶(ノクチューン) 』。
「続きましては、リナ様のもう一つの顔、影に生きる智謀の女神を表現いたしました。濃紺と黒で仕立てられた騎士服風のドレスは、有事の際の機能性も考慮しております。顔を覆う黒い蝶の仮面は、視界を妨げぬよう特殊な水晶を薄く削り出したもの。そしてこのマントの裏地には、銀糸で夜空の星座が緻密に刺繍されており、翻るたびに星々がきらめく様は、まさに夜を統べる女王の風格かと」
「これなら、ゲッコー殿も納得の機能美と隠密性ですわね」
セラの冷静な解説が聞こえ、私は「そういう問題ではないのです!」と心の中で絶叫した。
「……ユリウス。あなたはどう思う?」
皇妃陛下が、リナが着替えのために、裏に下がっているタイミングで、ぼーっと見惚れていた息子に不意に話を振る。
「えっ!? あ、は、はい! その、とても……その、お似合いで……」
しどろもどろになる皇子の姿に、皇妃は満足げに微笑んだ。
そして最後に現れたのは、『 戦場の薔薇(ヴァルキュリア) 』。
慣れないヒールに足を取られ、お立ち台の上でぐらりとよろめく。
(あっ、危ない!)
侍女頭が素早く、スマートに腕を差し出して支えなければ、間違いなく無様に転げ落ちていただろう。
「そしてこちらが、帝国の象徴としてのリナ様を体現する『戦場の薔薇』。我が帝国の色である深紅を纏った軽鎧仕立てのドレスは、宮廷鍛冶師がリナ様の御身に合わせて打ち上げたミスリル銀の胸当てが、その気高さを際立たせます。腰の細剣は装飾にあらず、いざという時には主君を守る最後の一振りとなりましょう。髪に挿した一輪の真紅の薔薇は、戦場に咲く一輪の花。そのカリスマ性と儚さが同居する、まさに『天翼の軍師』のイメージそのものでございます」
「ええ、素晴らしいわ! これぞ、我が帝国の女神ね!」
皇妃陛下が満足げに頷く声が、私の耳には死刑宣告のように響いた。
私が舞台裏で着替えさせられている間は、まさに戦場そのものだった。
「早く! 次のアクセサリーは!」「違う! それは『月の女神』用でしょう!」「誰か、リナ様の髪を結い直して!」
侍女たちが慌ただしく駆け回り、絹が擦れる音と焦った囁き声が渦を巻く。その中で、一人のまだ若い侍女が、緊張で震える手で『夜の蝶』用の黒い宝石のチョーカーではなく、『戦場の薔薇』用のルビーのブローチを差し出してしまった。
「……あなた」
侍女頭の氷のように冷たい声が、その一点に突き刺さる。場の空気が一瞬で凍りついた。
「……下がって、水を汲んできなさい。……そして、少し落ち着いてからいらっしゃい」
若い侍女は顔を真っ青にして、声もなく部屋を飛び出していった。
観客席では、そんな舞台裏の混乱など露知らず、黒幕たちの密談が交わされていた。
「……侍女頭。少し、やりすぎではありませんか?」
セラさんが少し咎めるように言うが、その目は「よくやったわ」と三日月のように細められている。
「申し訳ございません、セラ様。次回は、もう少しだけ控えるようにいたします」
侍女頭は恭しく頭を下げつつ、皇妃陛下に向き直った。
「皇妃陛下。いかがでしたでしょうか……」
「ええ、そうね…次は金の刺繍を増やしてみましょうか」
皇妃陛下が楽しげに意見をのべられる。そのやり取りの中に、一人、涼しい顔で控える女性がいた。生真面目そうな顔つきの彼女は、この後、私が帝都に滞在する間の世話役として、新たに用意された別邸を取り仕切ることになる侍女長、クララだった。
皇妃陛下が、そのクララにそっと声をかける。
「あなたも、この子がお屋敷を持つようになったら、この帝都にいる間は、表も裏も、しっかり頼みますよ」
「はっ! このクララ、身命を賭して」
彼女は完璧な礼と共に、深く頭を下げた。その一瞬だけ、彼女の視線が部屋の隅、いつの間にか壁の影に溶け込むように佇んでいたゲッコーさんと、意味ありげに交錯したのを、私は着替えの合間に見てしまった。
(……この人も、そっち側の人か……)
こうして、私の意思とは全く無関係に、私の公式イメージと、私が滞在する屋敷の侍女長が決まっていく。
全ての衣装合わせが終わり、ようやく解放された私は、よたよたとソファに崩れ落ちた。緊張の糸が切れ、だらっと手足を投げ出し、深いため息をつく。
その全てを諦観の境地で受け入れながら、私はただ、この悪夢のようなファッションショーが、二度と開催されないことだけを祈っていた。
「あ、あの……! リナ、殿……?」
不意に、頭の上から声が降ってきた。
はっと顔を上げると、頬を上気させたユリウス皇子が、戸惑いながらもどこか星を宿したような瞳で、私を見下ろしていた。
(――!?)
しまった!
脳内で警鐘がけたたましく鳴り響く。
よりにもよって、この国の第一王子に、年頃の令嬢にあるまじき姿を、完璧に見られてしまった! ソファにだらしなく手足を投げ出し、気の抜けた顔で天井を仰いでいた、あの無様な姿を!
『天翼の軍師』の威厳も、男爵令嬢(仮)の品位も、何もかもが音を立てて崩れ落ちる。
私は弾かれたように飛び起き、乱れたドレスの裾を慌てて直し、背筋を伸ばして居住まいを正した。
「こ、これはユリウス皇子! い、いつからそこに……!」
完全に油断しきった素の状態を見られた。顔にカッと血が上り、心臓が早鐘のように鳴り響く。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。
「い、いや、その……母上に呼ばれてからずっと……。そなたの、その……様々な姿は、実に……その、素晴らしかった……!」
皇子もまた、しどろもどろになりながら、必死に言葉を紡いでいる。
(うわあああ、見られてた! 最初から最後まで全部見られてた! しかも褒められてる! 逆に辛い!)
「……!」
「……!」
二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
その光景を、皇妃陛下とセラさんが、扇の影で肩を揺らし、楽しそうに笑いを堪えているのを、私たちはまだ知らなかった。