作品タイトル不明
第223話:『旅立ちの港、それぞれの誓い』
カモメの鳴き声と、船員たちの怒号。錆びた鉄と潮の香りが混じり合うアクア・ポリスの港。
私たちが北への旅支度に追われる数日前――聖女マリアは、すでに次なる盤上へと駒を進めていた。
帆船の、風が吹き抜ける後部デッキ。
マリアは一人、白く塗られた手すりに肘をつき、活気づく港を静かに見下ろしていた。やて、無遠慮な足音が背後で止まる。振り返るまでもない。この男だけが放つ、馴れ馴れしくも油断ならない気配。
執事リリィは、彼女の指示で船室へと向かわせている。
「……ハヤト。あなたに頼みがあるの」
その声から、いつもの挑発的な響きは消え失せていた。
「リナが、北へ向かうわ。……あなたも、ついて行ってあげて。あの子を守るために」
振り向いたマリアの瞳には、普段の彼女からは想像もつかない、切実な色が浮かんでいた。この大陸の均衡を支える最も重要で、そして最も脆い一点。それがリナという存在だと、彼女は誰よりも理解しているのだ。
だが、ハヤトは気怠げに首を横に振った。
「はぁ? なんで俺が。あいつにはゲッコーとかいう影男も、あの石頭の女騎士もついてる。そうそう後れは取らねえだろ」
彼の視線はマリアを通り越し、遠ざかる街並みへと注がれている。
「……それに」
ハヤトは、ぽつりと呟く。
「俺が守るのは、お前だよ。マリア」
「……なんですって?」
「分かってんのか? お前がこれまで踏みつけてきた連中の顔を忘れたわけじゃねえだろ。その怨嗟が、見えねえ刃になって喉元に突きつけられてるのを、お前自身が一番分かってるはずだ」
彼の言葉はどこまでもぶっきらぼうだが、その奥には揺るぎない真実の響きがあった。
「あの執事の女、リリィだっけか。まあ、そこそこ腕は立つが、あいつが側にいるのは風向きがこっちにあるからってだけだ。風向きが変わりゃ、真っ先に寝返るタイプだぜ、あれは」
ハヤトの目は、リリィの本質を正確に見抜いている。
「……お前には、俺が必要なんだよ」
マリアは一瞬、言葉を失ったように瞬きをする。やがて、扇でゆっくりと口元を隠し、細く、長い溜め息を吐いた。張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていく。
「……好きになさいな。けれど、私の側にいるというのなら、せいぜい役に立ってもらいますわよ、ヒーローさん?」
「おう、任せとけ」
短い会話が途切れた、その時だった。
カツ、カツ、と規則正しいヒールの音がデッキに響き、リリィが戻ってきた。
「マリア様、船室の準備が整いました」
完璧な所作で一礼したリリィは、しかし、すぐに気づく。二人の間に流れる、いつもの刺々しさとは違う、奇妙に凪いだ空気に。それはまるで、嵐の後の静けさにも似ていた。
「ご苦労様」
マリアは扇をパチンと小気味よい音を立てて閉じると、リリィとは決して視線を合わせぬまま、優雅に踵を返した。
「では、参りましょうか」
その横顔はいつも通りの女王然としたものだったが、どこか早口で、何かから逃れるように船室へと歩を進めていく。
一人残されたリリィの背後で、ハヤトがにやりと口の端を吊り上げた。そして、すれ違いざまに、トン、と軽い衝撃で彼女の肩を小突く。
リリィが弾かれたように振り向いた時には、彼の姿はもうそこにない。
黒い影がしなやかに宙を舞い、あっという間にマストの中ほどへ。こちらを見下ろすこともなく、ただ遠くの水平線を見つめている。
「……?」
小突かれた肩にそっと触れ、リリィは小さく首を傾げた。
主人が向かった船室の扉と、疾風のように駆け上がった男の背中を交互に見やる。
理解の及ばぬ主従のやり取り。しかし、完璧な執事はすぐさま思考を切り替え、静かに主人の後を追って船室の扉へと手をかけた。
◇◆◇
埠頭に立つ私たちが見守る中、白亜の船体がゆっくりと岸壁を離れてみるみるうちに小さくなっていく。
「……行かれましたね」
「ええ。……私たちも、準備を始めましょう」
セラさんの静かな声に、私はこくりと頷いた。