作品タイトル不明
第224話:『海竜の温情、盾への餞別』
アクア・ポリスの朝は、鋼の匂いと潮風が混じり合っていた。
夜明けの光が港を白銀に染める頃、私たちは北への長い旅路の準備を整えていた。
表向きは「裕福な商会の令嬢が、護衛を連れて故郷へ帰る」という触れ込みだ。その実態は「帝国書記官リナによる戦後復興地域の視察」、そしてそのさらに奥には「リナ自身の、あの奇跡の力の根源を探る旅」という、幾重にも仮面を重ねた複雑な旅路。
私たちの馬車の周りには、偶然同じ北を目指すという商人や傭兵の一団が、やけに多く集まっていた。彼らの装備が妙に真新しく、その目つきが鋭すぎることには、もう気づかないふりをすることにした。
「……はぁ。本当に、過保護なんだから……」
私の小さなため息は、出港前の喧騒に掻き消されていく。
◇◆◇
その前日の夜。
ロッシ中将の執務室は、ランプの灯りと年代物の蒸留酒の香りに満たされていた。
「――まあ、飲め」
ロッシは琥珀色の液体が満たされたグラスを、ヴォルフラムの前に無造作に置いた。彼女は戸惑いながらも、その強い酒を一口だけ口に含む。喉を焼くような熱が、緊張した体をわずかに緩ませた。
「……お前は、昔からそうだったな」
ロッシは海図に視線を落としたまま、独り言のように呟いた。
「一度こうと決めれば、決して曲がらん。その実直さと誠実さが、お前の強さだ。……だがな、ヴォルフラム。時にはその真っ直ぐさが、お前自身を砕きかねん」
彼はゆっくりと顔を上げ、その瞳でヴォルフラムを射抜いた。
「リナ殿は、お前が思うよりずっと強い。そして、賢い。……だが、一人では脆い。だからこそ、お前がいるのだろう?」
「……はっ」
「盾とは、ただ硬ければ良いというものではない。時には柳のようにしなり、時には風のように受け流す。そういう柔軟さも身につけろ。……まあ、石頭のお前に言っても無駄かもしれんがな」
ぶっきらぼうな言葉の奥に、父親のような不器用な優しさが滲んでいた。
「……お言葉、肝に銘じておきます」
ヴォルフラムはグラスを置くと、深く一礼し、席を立った。明日からの長旅に差し障るわけにはいかない。
その背中に、ロッシの諦めたような、それでいて温かい声が追いかける。
「……もうちっと、力を抜いてもいいと思うんだがな……」
◇◆◇
そして、出立の朝。
マキナさんが、油まみれの手を雑に拭いながら、息を切らして駆けつけてくれた。その目は徹夜明けで赤く充血しているが、いつものようにギラギラと輝いている。
「リナ! 待たせたな!」
彼女は私の手を掴むと、まず申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん! お前の足になるはずだった『蒸気トラック』、経済特区の工事に全部持ってかれちまって、ここに残ってねえんだ! 馬車での長旅になっちまうが、勘弁してくれ!」
そして、気を取り直したように顔を上げ、熱っぽく捲し立てた。
「いいか、俺は必ず『エーテル・ドライブ』の安定動作を確立させる! お前が北の研究所に着く頃には、飛行船の建造にも着手してやる! だから、待ってろよ! 絶対にお前を空に飛ばしてやるからな!」
そして彼女は、悪戯っぽくニヤリと笑う。
「それと、この世界はまだまだ面白い素材でいっぱいだからな。旅の途中で何か変な石ころとか、光る苔とか見つけたら、俺へのお土産に持ってきてくれよ! きっと高く買い取ってやるからさ!」
そのあまりに現金な送り出しの言葉に、私は思わず噴き出した。
やがて、全ての準備が整った。
ロッシ中将が、最後の見送りに来てくれた。彼はまず、私の前に屈み込むと、その熊のような大きな手で私の頭を一度だけ、わしりと撫でた。
「……達者でな、軍師殿」
そして、ヴォルフラムに向き直る。
「ヴォルフラムよ。あまり気負いすぎるな。お前はもう一人ではない。頼れる仲間がいることを、忘れるな」
その言葉は、彼女の心の最も柔らかな場所に、深く、温かく沁み渡った。
「――はっ!」
ヴォルフラムは、毅然と敬礼で応じる。
だが、馬車に乗り込み、彼の姿が見えなくなるまで背を向けた、その瞬間。
彼女の瞳から、堪えきれなかった一筋の涙が、音もなくこぼれ落ちた。
誰にも気づかれぬよう、それを手甲で乱暴に拭う。その仕草には、感謝と、新たな決意が滲んでいた。
馬車はゆっくりと港を離れ、北へと続く街道へと進路を取る。
窓の外に流れる景色を見ながら、私はこれから始まる長い旅路に、静かに思いを馳せた。