軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第219話:『翼の萌芽』

立て続けの激務に、さすがに私も疲労の色を隠せなかった。

司令部の自室に戻ると、セラさんが心配そうに温かいミルクを差し出してくれる。

「リナ様、少しお休みください。お顔の色が……」

「……ありがとう、セラさん。少しだけ……」

私がソファに深く身を沈めた、まさにその時だった。

扉が、何の遠慮もなく勢いよく開け放たれた。

「リナ! 面白いものができたから、ドックに来い!」

油と汗の匂いをさせたマキナさんが、子供のように目を輝かせて立っている。

その声が終わるか終わらないかの刹那。室内の空気が凍った。

音もなく、しかし鋼のような圧力を伴って、一つの影が扉の前に立ちはだかったのだ。ヴォルフラムさんだった。彼女はただそこに立っているだけで、抜き身の刃のような気配を放っている。

「――許可なくリナ様のお部屋に押し入るとは、万死に値する」

その蒼い瞳は絶対零度の光を宿し、マキナさんをまるで侵入者のように睨みつけていた。

「な、なんだよ、いきなり……! 俺だよ、マキナだよ!」

「知らん。名乗ったところで、貴様の無礼が許されると思うな」

ヴォルフラムさんの手は、すでに剣の柄にかかっている。一触即発の空気に、セラさんの眉がぴくりと動いた。

「ヴォルフラムさん、待って!」

私が慌てて二人の間に割って入る。

「マキナさんはお客様です。それに、私、行きますから!」

「しかし、リナ様! お疲れのところ……!」

「大丈夫です。ね?」

私がにっこりと微笑むと、ヴォルフラムさんはしばらく不満げに口をへの字に曲げていたが、やて観念したように大きく息を吐いた。

「……承知、いたしました。ですが、私も同行させていただきます」

彼女はそう言うと、一歩下がって壁際に控え、再び鋼の番犬と化した。

「……じゃ、じゃあ、行くか!」

マキナさんが気を取り直して、私に手を差し伸べようとした、まさにその瞬間。

再び、ヴォルフラムさんの影が動いた。

「――お待ちを」

彼女はマキナさんの手を遮るように二人の間に割って入ると、私に向かって深く片膝をついた。そして、何でもないことのように、しかし有無を言わせぬ響きで告げる。

「リナ様はお疲れです。ドックまでは、このヴォルフラムがお連れいたします」

「え?」

私が間の抜けた声を漏らすより早く、彼女の逞しい腕が私の膝裏と背中に滑り込まれた。

ふわり、と体が宙に浮く。

完璧なお姫様抱っこだった。

「うわっ!?」

思わず、素っ頓狂な声が漏れた。羞恥で顔が一気に熱くなる。

「ちょ、ヴォルフラムさん! 降ろしてください! 歩けます!」

「駄目です。リナ様のお体に障ります」

私の必死の抵抗は、彼女の鋼の腕の前では赤子の手足のように無力だった。

その光景を見ていたセラさんが、楽しそうにくすくすと笑う。

「仕方ありませんわね。では、わたくしが先導いたしましょう」

彼女は優雅に一礼すると、扉を開けて廊下へと歩みを進めた。

こうして私は、 貞淑(ていしゅく) で石頭な騎士に抱えられたまま、ドックへと「ご移送」されることになった。廊下ですれ違う海兵たちが、何事かと目を丸くしてこちらを見ているのが、恥ずかしくてたまらない。

マキナさんは、その後ろを「……マジかよ」と呟きながら、呆然とついてくるだけだった。

◇◆◇

アクア・ポリスの巨大ドックは、新たな時代の産声で満ちていた。

その喧騒の中心、陽光が降り注ぐドックの一角で、私とマキナさんは一つの美しい機体の前に立っていた。

それは、私が初めて彼女の工房を訪れた日に見た、木と布で組まれたグライダーだった。つぎはぎの跡は残るものの、考え抜かれた流線形の翼は、今にも風を掴んで舞い上がりそうだ。マキナさんが北の研究所からわざわざここまで運び込ませた、空飛ぶための最初の翼。今は静かに、その心臓が与えられる時を待っている。

「なあ、リナ」

マキナさんが、油で汚れた指先でその翼の骨格をそっと撫でた。

「蒸気機関で飛行機って、本当に飛ぶと思うか?」

彼女の瞳は、いつもの快活さとは違う、真剣な探求の色を宿していた。

「……分かりません。私たちのいた世界では、もっと違う力で飛んでいましたから」

私は正直に答えるしかなかった。プロペラを回す内燃機関。ジェットの噴射。私たちが知る空の主役は、この世界にはまだ存在しない。

「だよな」

マキナさんは肩をすくめると、ドックで最終調整中の船舶用蒸気機関を親指で示した。

「あっちの世界でもな、蒸気飛行機ってのは実際に創られたんだ。だから、理論上は可能だ! ……ただし!」

彼女は指を一本立て、その顔をぐっと私に近づけた。真剣な眼差しから、油と鉄の匂いがする。

「問題がデカすぎる。まず第一に、重い! 重すぎるんだよ!」

彼女は身振り手振りを交え、熱っぽく語り始めた。

「いいかい? 蒸気機関ってのは、巨大なヤカンでお湯を沸かして、その湯気でピストンを動かす仕組みだろ? 空を飛ぶってのは、そのデカいヤカンごと空に放り投げるようなもんだ。自分自身の重さに打ち勝つだけの、とんでもない力が必要になる。なのに蒸気機関は、エンジン自体が重い上に、燃料である『水』まで大量に積まなきゃならねえ。これじゃ、飛ぶ前に自分の重さで潰れちまう!」

そのあまりに分かりやすい例えに、私は思わず頷く。

「第二に、時間がかかる! 巨大なヤカンを沸かすのを想像してみろよ。火をくべて、水が温まって、ようやく蒸気が出てくる。敵が攻めてきた時に『ちょっと待って! 今、お湯沸かしてるから!』なんて言えるか? 無理だろ!」

「……確かに」

「まあ、その分、音はすごく静かだったらしいけどな。そこは魅力的なんだが……」

重さ、そして時間。あまりに根源的で、解決困難な問題。

私はしばらく腕を組んで考えていたが、ふと、一つの可能性に思い至った。

「……マキナさん。つまり、もっと少ない水で、もっと大きな力を生み出せればいいんですよね? ヤカンに入れる液体が、気体になった時にものすごく膨らんでくれれば……。それと、ヤカンがもっと早く沸けばいいわけだから……沸点が低ければ?」

その、素人ならではの素朴な問い。

その瞬間、マキナさんの目が、カッと見開かれた。

「……リナ。お前、やっぱ天才かよ!」

彼女は私の両肩を掴むと、興奮でぶんぶんと揺さぶった。

「その通りだ! 液体から気体になった時に、体積が何千倍にも膨れ上がる、魔法みたいな液体! そして、水よりもずっと低い温度で沸騰してくれる都合のいい液体! そんなもんがあれば……!」

彼女はそこで一度言葉を切り、ニヤリと、悪戯が成功した子供のように笑った。

「――実は、あったんだよな! そんな都合のいい液体が!」

彼女は近くの資材箱から、厳重に梱包された一つのガラス瓶を取り出した。中には、水よりもわずかに粘度が高く、光を当てると淡い虹色に輝く、美しい液体が満たされている。

「北の研究所の近くの古い泉でな、妙に『重たい水』が湧いてたんだ。最初は何かの鉱物が溶けてるだけだと思ってたんだが、試しにそいつを蒸気機関のヤカンに入れてみたら……どうなったと思う?」

「……まさか」

「ああ。爆発した。それも、とんでもない大爆発だ」

彼女は楽しそうに肩をすくめる。「低温で沸騰して、更に普通の水の何十倍もの容積に膨張しやがったんだ。ヤカンもピストンも全部木っ端微塵さ。蒸気トラックは開発を急いでたから、泣く泣く普通の水でエンジンを完成させたんだが……」

彼女はガラス瓶を掲げ、その液体を愛おしそうに見つめた。

「こいつを、普通の水と区別するために『 霊素溶液(エーテルリキッド) 』って名付けた。……リナ。これ、飛行機のエンジンに使えると思わねえか?」

「ただの水の蒸気機関でさえ前の世界の奴らは、飛行機にして飛ばしているんだ。これはもう出来ないわけがないだろう」

そして、彼女は私の手を引き、ドックのさらに奥へと向かう。黒い防水布がかけられた、新たな機械の塊。

マキナさんがその布を勢いよく引き剥がすと、中から現れたのは、これまでの無骨な蒸気機関とは似ても似つかぬ、精密で、どこか有機的な美しささえ持つ、小型のエンジンだった。

「この『エーテルリキッド』の爆発的な膨張力に耐えられるよう、特殊な合金でヤカン(ボイラー)とピストンを強化し、全ての部品をゼロから設計し直し、お前がヴェネーリアに行ってる間に、北の連中に図面を送って作らせておいたのさ。……これこそが!」

彼女は誇らしげに胸を張った。

「――俺たちの翼の心臓、『 霊素機関(エーテル・ドライブ) 試作一号機』だ!」

その黒光りするエンジンは、まだ見ぬ空への希望を宿し、静かに、しかし力強い鼓動を待っているかのようだった。