作品タイトル不明
第218話:『それぞれの航路』
アクア・ポリスの朝は、別れの潮風から始まった。
夜明け前の静寂を破り、巨大な鋼の船体が岸壁を離れる重々しい音が響く。帝国最新鋭の 高速蒸気揚陸艦(スレイプニル) 。その甲板で、私たちはそれぞれの未来へと旅立つ仲間たちを見送っていた。
「――では、軍師殿。また会談の日に」
最初に軽く手を上げたのは、若き王アルフォンスだった。船旅の疲れはまだその顔に影を落としているが、瞳には自らの国を背負う王としての揺るぎない光が宿っている。
私は銀の仮面越しにその覚悟を受け止め、静かに、しかし力強く応じた。
「はい、アルフォンス陛下。次にお会いする時は、さらに強くなられた王国の姿を楽しみにしております」
「ああ。必ず」
短い言葉に、互いの信頼が満ちる。
隣に立つグラン宰相もまた、私にだけ分かるように、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「……あまり、無理はなさらないでくださいね」
「グラン宰相こそ。お体、ご自愛ください」
短い言葉を交わし、彼女は再び宰相の厳しい仮面を被り直し、王の隣へと戻った。
やがて長い汽笛が鳴り響き、『スレイプニル』は一路、王都アルカディアへ。遠ざかる船影が見えなくなるまで、私たちはただ黙ってそれを見送っていた。
◇◆◇
司令部に戻ると、息つく間もなく次の報せが待っていた。
『囁きの小箱』が低い唸りをあげ、マルコ・ポラーニから通信が入る。
私はセラとヴォルフラムだけを伴い、機密保持に優れた一室へと向かった。小箱から響いてきたのは、抑えきれない興奮に上擦ったマルコの声だった。
『――軍師殿! 聞いていただきたい! 我ら新興派が、ついにヴェネーリアを完全に掌握いたしました!』
その報告は、私の想像を遥かに超える速度だった。
リリィが残した毒のリストをきっかけに、ピエトロとレオが旧体制派の不正を暴き、民衆の不満を扇動。聖女マリアが裏から手を回し、王国と繋がりの深いギルドを切り崩した。そして最後は、マルコ自身が莫大な私財を投じて評議会の票を買い占め、電光石火のクーデターを成功させたのだという。
『これで、あの古狸どもは完全に牙を抜かれました。……つきましては、軍師殿に一つ、ご提案が』
彼の声が、熱を帯びる。
『無用の長物と化す予定のヴェネーリア本国ですが、このまま寂れさせるのは惜しい。この港湾都市そのものを、我らが計画する『中立経済特区』の、もう一つの拠点として組み込んではいただけないでしょうか。大陸の西の玄関口として、必ずや大きな利益を生むと、このマルコ、お約束いたします!』
ここに残って頑張る予定だった者達からの同意も、既に大半から得られていると、熱く語ってくれた。
野心に満ちた、しかしあまりに魅力的な提案。
私は即座に帝都のアルバート宰相と、王都へ向かう船上のグラン宰相を繋ぎ、三者間での緊急会談を開いた。
マルコの提案とその利点を簡潔に説明すると、両宰相の反応は驚くほど一致していた。
『……軍師殿が、それが最善と判断されるのであれば、我らに異論はない』
『ええ。あなたの判断を、我々は全面的に信頼いたします』
絶対の信頼。その重みが、ずしりと肩にのしかかる。
「……感謝、いたします。では、そのように」
私はマルコに計画の承認を伝え、具体的な草案作成を指示すると、ようやく重い息を吐き出した。
◇◆◇
その夜、私はマリア様から『お茶会』に呼び出された。場所はロッシ中将の執務室を借り切った、機密性の高い一室。リリィが淹れた紅茶の香りが、葉巻の匂いが染みついた重厚な空気を和らげている。
「それで、リナ。マルコからの提案、承認したそうね」
マリア様は扇の影で優雅に微笑む。
「はい。ヴェネーリア本国を経済特区の第二拠点とする案です。宰相閣下たちも同意されました」
「結構なことだわ。それでね」
彼女は身を乗り出し、声を潜めた。
「その新しい拠点に、『アルゴス』の総本部を置かさせたいの」
「!」
「考えてもみて。帝国と王国、どちらの首都にも属さない中立地帯。あらゆる情報と人が集まる場所。これほど諜報活動の拠点にふさわしい場所はないでしょう?」
彼女は扇で口元を隠し、さらに声を潜めた。その瞳は、盤上の全てを見通すかのように怜悧な光を宿している。
「それに、あの港は地理的にも絶好の位置にあるわ。南の聖王国とも近いし、ひいては我らの本当の敵、アルビオン連合王国に対しても動きがとりやすい。……大陸全体の影を監視するには、これ以上の場所はないのよ」
そのあまりに合理的で、したたかな提案に、私はただ頷くしかなかった。
「……分かりました。その件、マルコ殿にも伝えておきます」
マリア様は満足げに頷くと、最後に悪戯っぽく付け加えた。
「それと、わたくしも近いうちにそちらへ向かうわ。……新しく生まれ変わるヴェネーリア、この目で見物させてもらわないとね」
彼女の瞳が、新たな遊戯盤を見つけた子供のように、愉しげにきらめいていた。