作品タイトル不明
追憶:黄金の港へと続く道
十五の旅立ちの朝は、夜の底が白む頃から、ひどく静かだった。
ひんやりと肌を刺す暁の空気。使い古した革袋に、なけなしの着替えと、院長先生が握らせてくれた石のように固い黒パンを押し込む。
大部屋の方から、いつもと変わらない声が聞こえてきた。もうじき日が昇る。この声を聴くのも、今日で最後か。
心臓を冷たい手で掴まれたような痛みが、息を詰まらせた。
俺の人生が、運命が、大きく舵を切ったのは、ほんの数週間前のことだ。
市場の喧騒の中、いつものように肉屋の親父と値札を睨みつけ、丁々発止のやり取りを繰り広げていると、不意に影が差した。見上げれば、見たこともないほど上等な服を纏った、日に焼けた異国の男が、値踏みするように、それでいて面白そうに俺を見下ろしていた。
「坊主、面白いな。その歳で金の流れと人の心を読む勘がいい。俺の船に乗り、本物の商売を学んでみないか?」
ポルト・アウレオ。黄金の港。
その言葉の響きは、帆船のマストが森のように林立し、異国の香辛料の匂いが潮風に乗って運ばれてくる幻の光景を、俺の脳裏に焼き付けた。
心は、その瞬間に決まっていた。
あの時も、少し離れた人垣の陰で、リナが俺のことをじっと見ていたのを、俺は知っていた。
俺がこの孤児院で一番の兄貴分になったのは、まだ十二の頃。
初めて院長先生に市場での買い出しを任された日、俺のズボンの裾を小さな手でぎゅっと掴んで離さなかった影があった。それが、当時まだ四つだったリナだ。
「れおにーちゃん、まってー」
舌足らずな声で後をついてくるリナは、正直すこし足手まといだった。だが、あの日々がなければ、今の俺は絶対にない。
最初の頃、俺は市場の大人たちにいいようにカモにされていた。
「兄ちゃん、このジャガイモは採れたてだぜ!」
威勢のいい八百屋の親父にそう言われ、袋いっぱいに買った芋は、院に戻って改めると底の方に芽の出た古いものばかり。悔しさに唇を噛む俺の裾を、リナがくいっと引く。
「にーちゃん、あのね、お野菜はね、ほんのちょっとだけ土さんがついてるのが、昨日まで畑にいたっていう、しるしなんだって」
「おさかなはね、おめめが、きらきら」
たどたどしい言葉で、けれど絶対の確信をもって、リナはそう囁いた。
次の買い出しから、俺はリナの言葉を信じた。
野菜の裏を見せろと迫り、銀色に光る魚の目を覗き込む俺を、店の親父たちは訝しげに見ていた。だが、リナの言う通りに選んだ品は、どれも驚くほど質が良かった。
俺が数字に弱いと知ると、リナは帳簿のつけ方まで教えてくれた。
「れおにーちゃん、ここ、ぱんやさん、ちがうよ」
まだ文字もろくに書けないはずの妹が、俺が何時間も唸っていた間違いを、ほんの数秒で見つけ出す。その小さな頭の中に、一体何が詰まっているのか不思議でならなかった。
そうやって二人で市場に通い、一年が経った。俺が十三、リナが五つになったばかりの頃。
忘れもしない、あの日の出来事が起きた。
その日も市場は人でごった返し、魚の脂と人々の汗の匂いがむせ返るようだった。俺は交渉術にも自信がつき、魚屋の親父と額を突き合わせるように夢中でやり合っていた。
ほんの一瞬、ほんの数秒。隣にいるはずのリナから目を離した、その時だった。
「――れ、レオ兄ちゃんっ!!!」
鼓膜を突き破るような、子供らしからぬ絶叫。それはただの悲鳴ではない。市場の全ての音を掻き消す、魂を削るような必死の叫びだった。
世界が、止まる。
心臓を鷲掴みにされた衝撃に、弾かれたように振り返った。視界が白く点滅し、音が遠のく。
人混みの向こう。浮浪者のような薄汚い男たちが、リナの小さな腕を掴み、雑踏に紛れて連れ去ろうとしていた。
「――リナに、触るなあっ!」
思考より先に、体が爆ぜた。
怒声と悲鳴を背に、獣のように人波を切り裂く。肩で人を突き飛ばし、荷車を飛び越え、最短距離を抉るように駆けた。
まだ細い腕で、リナを掴む男の腕に必死に喰らいつく。男の動きが鈍り、リナを掴む力がわずかに緩む。
その一瞬を、俺の妹は見逃さなかった。
「――ッ!」
小さな体がしなり、牙を剥く子猫のように男の腕に喰らいついた。
ガブリ!
「いってぇな、このクソガキ!」
男の汚い怒声が響く。だがリナは怯まない。その勢いのまま体を反転させ、渾身の力で男のすねを蹴り上げた。ゴッ、と鈍い音が響き、男が思わず膝をつく。
その騒ぎに、ようやく周囲が気づいた。屈強な魚屋の親父たちが駆けつけ、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
男たちの姿が人混みに消えた瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩む。
さっきまで勇敢に戦っていたはずの小さな妹の、その緊張の糸が、ぷつりと切れた。
「……う……うわああああん!」
大きな瞳から滝のように涙を溢れさせ、リナはよろよろと俺の元へ駆け寄る。そして、その小さな体で、俺の腰に砕けるようにしがみついてきた。
「こわかったよぉ、レオ兄ちゃん……! こわかったぁ……!」
わんわんと泣きじゃくるリナを、俺はその場に膝をついて力いっぱい抱きしめた。俺の胸に顔をうずめる小さな体の震えが、俺の無力さを容赦なく突きつけてくる。
「大丈夫だ、リナ。もう大丈夫だから……ごめんな、俺が目を離したから……」
震える背中を何度も撫でながら、俺は誓った。まだ声変わりもしていない、頼りない声だったかもしれない。だがそれは、紛れもなく俺の魂の誓いだった。
「……俺がもっと強くなる。お前を絶対に守れるくらい、強くて、大きな男になるから。だから、もう泣くな」
その言葉が響いた瞬間、俺の胸でしゃくりあげていたリナの動きが、不自然に止まった。
肩の震えが収まり、まるで時が止まったかのように静かになる。
「どうした?」
俺が覗き込もうとすると、リナはゆっくりと顔を上げた。涙でぐしょぐしょに濡れた瞳が大きく見開かれ、驚きと戸惑いの色が浮かんでいる。
次の瞬間、彼女の顔が、耳まで、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「……っ!」
声にならない息を呑み、リナは慌てて再び俺の胸に顔を強く押し付けた。さっきまでの恐怖とは違う。何かとんでもなく恥ずかしいものから隠れるように、ぐりぐりと顔をうずめてくる。俺の服を掴む指先に、ぎゅっと力が入っていた。
そんな俺たちを、腕組みをしていた屈強な魚屋の親父が見ていた。
「坊主、よくやったな」
大きな手が、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「ほら、二人とも。怖かったねぇ」
近くの果物屋のおばちゃんが、しわくちゃの優しい笑顔で、つやつかに磨かれた真っ赤なリンゴを二つ、そっと俺たちの手に握らせてくれた。
あの日を境に、俺の中で何かが変わった。
ただ妹に助けられるだけの兄じゃない。俺が、この小さな妹の盾になるのだと。
それからの俺は、がむしゃらだった。俺が十四になる頃には、市場の誰もが俺に一目置き、リナにちょっかいを出す輩は一人もいなくなった。リナはもう何も言わず、ただ静かに俺の背中を見守っていた。
だから、あの商人に声をかけられた時、俺は行くと決めた。もっと大きな世界で、もっと強くなるために。あの日の誓いを、果たすために。
旅立ちの朝。最後にリナの前に立つ。
「約束する。俺は絶対にでっかい商人になって、いつかお前たちみんなを迎えに来る。誰も手出しできないくらい強くなって、お前たちを守れるようになる。だから、それまで待っててくれ」
リナは、こくりと力強く頷いた。その瞳に宿る絶対の信頼が、俺の最後の迷いを焼き尽くした。
古びた門をくぐる。
振り返ると、リナだけは手を振っていなかった。
ただまっすぐに、じっと俺の背中を見送っている。まるで、俺の決意の全てを見通しているかのように。
俺はその姿を目に焼き付け、仲間たちに一度だけ強く手を振ると、きつく唇を結んで前を向いた。