軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

追憶:空色のおねえちゃん① 蜂蜜ケーキの約束

私の名前はアンナ。いくつかは、よくわからない。

院長先生が「たぶん五つくらいかしら」って私の頭を撫でながら言ったから、私は五つ。

冷たい石の壁の匂いで、目が覚めた。お部屋はまだ薄暗い。

隣のベッドでトムがむにゃむにゃ寝言を言いながら、毛布の中でごそごそ動いてる。私のおなかが、ぐぅ、と大きな音を立てた。早く朝ごはんにならないかな。

食堂に満ちる、いつもの匂い。お野菜の皮を煮込んだ、ちょっとしょっぱい匂いだ。

運ばれてきたスープのお皿を覗き込むと、底の方に形の崩れたお芋と、今日はそれ以外にちいさな人参がひとつ、ぽつんと浮かんでいた。ラッキー。

でも黒いパンは石みたいにカチカチで、私の歯じゃとても噛めそうにない。

「アンナ、スープにつけてごらん」

隣のリナお姉ちゃんが、私のパンを小さくちぎってスープに浸してくれた。指先が触れると、いつもあったかい。

リナお姉ちゃんは、今のこの孤児院では一番のお姉ちゃんだ。私が転んで泣けば「痛いの飛んでけ」ってしてくれるし、何より、すごい魔法が使えるんだ。

夜、ごはんの後の絵本の時間が、私の一番好きな時間。

リナお姉ちゃんが図書室の隅から持ってくる分厚い本には、ぐにゃぐにゃした絵みたいな字が並んでる。誰も読めないその字を、リナお姉ちゃんだけが歌うみたいにすらすらと読むのだ。

「――さて、悪い魔法使いに宝石を盗まれた竜の王様は、悲しみに暮れていました」

リナお姉ちゃんの声を聞いていると、薄暗い部屋がキラキラの宝石でいっぱいの洞窟になる。カチカチのパンも水みたいなスープも忘れて、悲しむ竜の王様を思うと、私の目からぽろりと涙がこぼれた。リナお姉ちゃんは、そんな私の頭を優しく撫でてくれた。

でもある日、遠くの街からゴォン、ゴォンと、お腹に響く悲しい鐘の音が聞こえてきた。大人たちが「また負けた」「...剣聖と聖女が...」とひそひそ話してる。怖い言葉だなって思った。その日、院長先生の眉間には、見たことのない深くて暗いしわが刻まれていた。

不思議なことが起きたのは、その次の日からだった。

リナお姉ちゃんが院長先生とお出かけした次の朝、スープの匂いがいつもと違った。甘くて、香ばしい匂い。お鍋の蓋が開いた瞬間、みんなが「わあっ」と声を上げた。

スープの中に、黄色いカボチャや緑のお豆が入っていた。お肉まで!

「すごい! お肉だ!」

トムが叫ぶ。私も夢中でスプーンを口に運んだ。あったかくて、甘くて、とってもおいしい。カチカチだった黒パンも、なんだか少しだけ柔らかい気がした。

「リナの魔法だ!」

誰かが言うと、みんながこくこくと頷いた。やっぱり、リナお姉ちゃんはすごい魔法使いなんだ。

それからリナお姉ちゃんは、もっとすごい人になった。市場に行けば、知らないおじさんやおばさんが「よう、神童様!」と手を上げる。私は「しんどうさま」が何かはわからないけど、自分のことみたいに嬉しくて、胸を張った。

だけど、リナお姉ちゃんは時々、窓の外の何もない空を、じっと見つめるようになった。

ある晴れた日、怖そうな服を着たおじさんが、大きな馬の引く車に乗ってやって来た。院長先生は私の前に立つと、リナお姉ちゃんを背中にかばうようにぎゅっと抱きしめた。おじさんは難しい顔で何かを話し、リナお姉ちゃんは小さな、でも竜の物語みたいに綺麗な声で答えていた。

その夜は、どうしても眠れなかった。リナお姉ちゃんがいなくなっちゃうような、嫌な気持ちがしたから。

そろりとベッドを抜け出すと、リナお姉ちゃんも起きていて、窓辺に立っていた。月明かりが、その横顔を白く照らしている。

「リナお姉ちゃん……?」

声をかけると、リナお姉ちゃんはびくりと肩を揺らし、それから優しく笑った。

「どうしたの、アンナ。眠れないの?」

私はその足元に駆け寄り、ぎゅっとしがみついた。

「どこか、行っちゃうの……?」

リナお姉ちゃんは少し黙って、それから私をひょいと抱き上げてくれた。

「アンナは、賢い子ね」

その声は、少しだけ震えていた。

「大丈夫。お姉ちゃんはみんなのために、ちょっとお仕事に行くだけ。すぐに、たくさんのお菓子を持って帰ってくるから」

「ほんと?」

「本当よ。だから寂しくなったらお空を見てごらん。アンナが見てるお月様と、私が見てるお月様は、同じだから。ね?」

リナお姉ちゃんは、私の頭を何度も何度も撫でてくれた。その手はいつもみたいにあったかいのに、なぜか少しだけ、冷たい気がした。私はリナお姉ちゃんの首にぎゅっと腕を回したまま、いつの間にか眠ってしまった。

だから、次の朝。

リナお姉ちゃんが、見たこともない綺麗な、空色のワンピースを着ているのを見た時、すぐにわかった。

今日なんだ。お姉ちゃんが、遠くへ行っちゃう日なんだ。

胸のところがきゅうっとなって、涙がぽろぽろこぼれ落ちる。

「リナ……行っちゃうのぉ……? アンナ、寂しいよぉ……」

私はリナお姉ちゃんの腰にしがみついて、わんわん泣いた。行かないで。ここにいて。竜の王様の続きを読んでくれなきゃいやだ。

でも、リナお姉ちゃんは泣いている私をぎゅっと抱きしめて、言ったのだ。

「忘れるわけないじゃない! みんなは、私のたったひとつの、大切な家族なんだから!」

その声はいつもの優しい声じゃなくて、竜の王様を守る騎士みたいに、強くて、かっこよかった。

だから私は、泣くのをやめた。

リナお姉ちゃんが持ってきてくれる、とろとろの蜂蜜がかかったバターケーキを、ちゃんと待っていようって決めた。

大きな馬車に乗り込むリナお姉ちゃんに、私は一番大きな声で手を振った。

行ってらっしゃい、リナお姉ちゃん。

早く帰ってきてね。

みんな、ここで、ずっとずっと待ってるからね。