作品タイトル不明
間話:鋼の淑女、その黎明⑥ 仮面の下の素顔
揺らめくランプの光が、憎悪に歪む男たちの武骨な顔を照らし出していた。
私のすぐ隣、豪奢な輿の赤い帳の向こうには、この作戦の立案者...リナがいる。獣の唸り声にも似た男たちの殺気が、天幕そのものを震わせているかのようだ。
『なぜ、あの『剣聖』を殺さぬのです』
その言葉は、私の心の奥底に沈殿していた澱を、容赦なくかき混ぜた。
殺さぬ、だと? 私だって殺したい。八つ裂きにしてやりたい。
脳裏に、ハヤトという名の理不尽な嵐に蹂躙された、かつての戦場が鮮やかに蘇る。私が練り上げた完璧なはずの布陣。それを赤子の手をひねるように突破され、命を散らしていった仲間たちの顔、顔、顔。彼らの絶望の叫びが、今も耳の奥に焼き付いて離れないのだ。
目の前の隊長たちと同じだ。私の魂もまた、ハヤトへの復讐の炎で黒く焦げ付いている。
だが、私は唇を固く結び、一歩も動かなかった。
司令官として、副官として、感情に身を委ねることは許されない。そして何より、リナの策の真意を、私は誰よりも理解していたからだ。
これは、ただの奇策ではない。敵の心、組織、そして伝説そのものを内側から蝕む、恐ろしくも美しい毒。騎士道しか知らぬ猪武者には到底思いつきもしない、私が諜報・謀略課程で学んだ全てを凌駕する、背筋が凍るほど洗練された心理戦。
帳の向こうから、変声器を通したリナの冷たい声が響く。
彼女が紡ぐ言葉の一つ一つが、男たちの剥き出しの憎悪を、冷徹な論理で解体していく。
男たちが膝を折り、兜を垂れる。天幕を支配していた熱狂は消え、冷徹な作戦遂行の意思だけが残った。
私は、帳の奥にいるであろう少女の姿を思った。あれだけの殺気を向けられながら、微塵も揺らがなかった鋼の精神。だが、本当にそうだろうか。変声器を通した声の奥に、ほんのかすかな震えがあったのを、私は聞き逃さなかった。
この子もまた、恐怖と戦いながら、仮面を被って「軍師」を演じているのだ。
◇◆◇
作戦準備は、極秘裏に進められた。
私はリナに付き従い、工兵隊と錬金術師たちが詰める天幕を訪れた。
フードを目深にかぶったリナは、古びた羊皮紙を広げ、工兵隊長と錬金術師の老人に静かに告げた。その声は変声器を通しているが、内容は私の血を凍らせるには十分だった。
「松脂と樹液だけでは、あの『剣聖』の膂力には耐えられません。ここに、土の属性を持つ魔石の粉末と、鉄喰い蟲の体液を調合してください」
「こ、これは…金属を腐食させる錬金術…。まさか、剣聖殿の武具を…」
顔を青ざめさせる錬金術師に、リナは静かに頷く。
「ええ。彼の牙と爪を、根元から腐らせるのですよ。駐屯地にいる土の使い手を総動員し、この粘液の粘性を極限まで高め、地中に溶け込ませるように偽装を。決して、気づかれてはなりません」
私は息を呑んだ。これは、単なる足止めではない。ハヤトの力の源泉である、おそらくは名工が鍛え上げたであろう、剣聖の常識外の力に晒されても耐えうる特注の剣と鎧を、物理的に破壊する策。彼の心を折るだけでなく、その力を根こそぎ奪い去るための、あまりにも非情で、そして合理的な一手。
私は、隣に立つ小さな軍師の横顔を、畏怖の念と共に盗み見た。
◇◆◇
作戦は、寸分の狂いもなく進んだ。
私は、リナの座る輿のすぐそばに馬を寄せ、高台に設けた櫓の上から送られてくる旗信号を注視していた。熟練の斥候が、千里鏡(望遠鏡)のレンズ越しに捉えた戦況を、一刻も途切れさせることなく伝えてくる。
そして、その時は来た。
英雄が、無様に泥濘に足を取られる。もがけばもがくほど、醜く絡め取られていく。
旗信号が伝えるその光景に、私の口元が微かに吊り上がるのを感じた。
ただ泥にまみれているだけではない。あの粘液に触れた彼の鎧は徐々に輝きを失い、誇らしげな紋章は錆びて崩れ落ちていくのだろう。そして、彼の命とも言うべきあの剣も…。想像するだけで、胸のすく思いだった。
吟遊詩人のふざけた歌。兵士たちのこらえきれない嘲笑。
ひゅ、と軽い音を立てて、竹筒が宙を舞う。
カン、と。
間抜けな音が響き、竹筒はハヤトの兜に当たって地面に落ちた。それは致命傷どころか、傷一つつけられない、子供の石つぶてのような一撃。
だが、その意味を理解したであろうハヤトの、光を失った瞳が想像できた。
最強の剣聖が、敵の兵士に、竹筒をただ当てられる。これ以上の侮辱があるだろうか。
ざまあみろ。
声には出さず、私は心の中で呟いた。
あなたに殺された者たちの無念を、その身に刻むがいい。死よりも辛い屈辱という名の毒を、その魂が腐り落ちるまで味わい続けるがいい。
撤退の合図と共に、私は馬首を返した。
◇◆◇
駐屯地は、熱病に浮かされたかのような狂騒に包まれていた。
『剣聖』撃退の報は、兵士たちの士気を爆発的に高揚させた。誰もが口々に「謎の軍師殿」の智謀を神の如く讃え、あの悪趣味な輿は「勝利の玉座」と呼ばれ、畏敬の念のこもった視線を集めている。
彼らが崇める「神」が、フードの下で重圧に耐える、か細い肩を持った少女であることを、彼らは知らない。
そして、兵士たちはこの勝利を『英雄への痛快な仕返し』程度にしか思っていない。だが、真実は違う。リナの策は、ハヤトの心を折ると同時に、彼の力を物理的に奪い去ったのだ。国家レベルでなければ再生産できないであろう武具を失った『剣聖』は、もはやただの腕自慢の男。立て直すためには王都に帰り報告をして、その装備一式をいかにして揃えるというのか。上手く事が進んだとしてもかなりの時間と金銭を要するだろう。次に会う時、彼はもう悪夢の象徴ではありえない。
そんな喧騒を抜け、私が厨房を通りかかった時だった。
そこには、ローブを脱ぎ、袖をまくったリナの姿があった。
「んー、今日のシチューは、少し味が薄いですね。岩塩をもうひとつまみと、隠し味にこの“月桂樹”の葉を一枚……よし、完璧です!」
大きな木べらを懸命に操り、背伸びをしながら大鍋をかき混ぜる姿は、どこからどう見ても年相応の、好奇心旺盛な少女そのものだった。
あの無邪気な少女が、これほどまでに冷徹な一撃を放ったという事実を、この戦場で知るのは私とごく僅かな者だけだ。この恐ろしいほどのギャップこそが、彼女の非凡さの証明なのかもしれない。
この場所こそが、彼女が「謎の軍師」という重い仮面を外し、息をつける唯一の場所。この何気ない日常こそが、彼女の繊細な心の均衡を保っているのだろう。
そして、この笑顔を守るためならば、私はどんな非情な剣にも、冷徹な盾にもなろう。
私は物陰からそっとその光景を見つめ、静かにその場を後にした。
その日の午後、グレイグの執務天幕に呼び出された私たちは、帝都からの通達を知らされた。
『男爵』位。前代未聞の叙勲。
リナが目を丸くして固まっている。その反応に、思わず口元が緩んだ。
「護衛を兼ねた侍女でもつけてやるか?」
司令官のからかうような言葉に、リナが素っ頓狂な声で抵抗する。
「け、結構です! 侍女なんていりません!」
その必死な様子が微笑ましくて、私は今度こそ小さく噴き出してしまった。
リナが、少し拗ねたように私を見る。
平穏と狂騒。軍師の仮面と少女の素顔。
この奇妙な均衡の上で、私たちは生きている。
いつか来るであろう本当の決戦の日まで、この束の間の日常を、この温かい光を、私が必ず守り抜く。
私は、隣で慌てる小さな男爵様を見ながら、改めて心に固く誓った。