作品タイトル不明
間話:鋼の淑女、その黎明⑤ 星空の誓い
夜明け前の冷気が肌を刺す司令部で、私は地図盤を見つめていた。
風にはためく天幕の向こうから、次々と伝令の荒い息遣いが飛び込んでくる。王国軍の混乱、そして敗走。地図盤の上で、敵を示す駒が私の予測を遥かに超える速度で崩れていく。
全ては、あの少女――リナがもたらした情報通りだった。
いや、それ以上だ。
彼女は敵の策を読み解いただけではない。将の思考、兵の心理、地形の利不利。あらゆる要素を織り込み、急所となる一点を寸分の狂いもなく指し示したのだ。
私の知略が盤上の駒を動かす遊戯なら、彼女のそれは、まるで未来から戦場を見下ろす神の視点。
『剣聖』ハヤトという理不尽な暴力に砕かれた私の心に、今度は質の違う理不尽な知性が、畏怖と共に一条の光を灯していた。
◇◆◇
帰路、私はリナの車椅子を押していた。
兵士たちの勝利を讃える 鬨の声(ときのこえ) が、耳をつんざくほどに響き渡る。誰もが興奮に顔を紅潮させ、勝利に酔いしれていた。
だが私の目は、車椅子の上で小さくなる少女の姿だけを捉えていた。フードの影が落ちる横顔は石のように硬く、青ざめている。その視線は、道端に転がる折れた剣や、土に染みついた黒い血痕に縫い止められていた。
……そうか。これが、この子が初めて目にする本物の戦場……。
かつての自分が重なる。書物の中の戦争しか知らなかった、帝都の鳥籠で生きていた私。初めて仲間の骸を前に、己の無力さを呪ったあの日の記憶が、胸を抉る。
この子も今、己の言葉がもたらした結果の重みに、打ちのめされているのだ。
その時、グレイグ司令官が馬を寄せ、馬上から彼女に声をかけた。
「お前は、人を生かすために戦った。それだけは、絶対に忘れるな」
不器用だが、芯の通った力強い声。それはまるで、私の心にも向けられたかのようだった。そうだ、私たちは守るために、生かすために、この泥濘に立っている。
司令官の言葉に、リナの強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けるのが分かった。
私はただ黙って二人を見つめる。この胡散臭いが懐の深い男を上官に持てた幸運を、改めて噛み締めていた。
駐屯地は、勝利の熱狂に揺れていた。
泥と汗にまみれた兵士たちが、私を見つけて駆け寄ってくる。
「副官殿! 軍師殿にこれを!」「俺たちの感謝の気持ちだ、受け取ってくれ!」
差し出されたのは、けして上等ではない干し果物や、不格好な焼きパン。彼らの剥き出しの感謝が、ずしりと腕に重い。
私はその一つ、まだ温かいパンの包みを受け取ると、リナの天幕へと足を向けた。
天幕の前で、一瞬ためらう。どう切り出すべきか。
脳裏に、ハヤトに策を尽く破られ、仲間が次々と斃れていった絶望の日々が蘇る。あの暗闇に風穴を開けてくれたのは、間違いなくこの少女だ。
天幕をめくると、リナはランプの灯りの下で小さくなっていた。
「……私も、そう思う」
自然と、言葉が口をついた。
「生かすための戦いだったと。……ありがとう、リナ」
初めて呼んだ彼女の名。初めて伝えた、私の心からの感謝。
驚いたように私を見上げた彼女の唇が、かすかに動く。
「……セラさん」
その声を聞いた瞬間、凍てついていた心の一部が、確かに融けていくのを感じた。
◇◆◇
つかの間の平穏は、帝都からの報せがもたらした馬鹿げた熱狂と、さらに馬鹿げた贈り物によって破られた。
「謎の軍師」伝説。吟遊詩人が歌い、芝居の演目になるほどの人気だという。貴族社会の軽薄さと、民衆の移ろいやすさを私は知っている。彼らが祭り上げているのは都合のいい偶像に過ぎず、その重圧に少女が喘いでいることなど想像もしない。
極めつけは、皇帝陛下からの御下賜品――古き英雄物語に出て来そうな、悪趣味なまでに豪奢な輿だった。
「いりませーーーん!」
天幕に響き渡ったリナの素の絶叫に、私は必死で口元を引き結ぶ。不敬と分かっていても、笑いを堪えるのは不可能だった。可哀想に。だが、少しだけ、面白い。
彼女のそんな人間らしい一面を見るたび、私の彼女への感情は「類稀なる才能を持つ子供」から、もっと温かいものへと変わっていった。
だが、そんな滑稽な日常は、唐突に引き裂かれた。
『剣聖』襲来。
その一言は、悪夢の再来そのものだった。
斥候の報告が 耳朶(じだ) を打った瞬間、心臓を氷の手に掴まれ、指先から急速に血の気が引いていく。人の理を超えた速度。こちらの策を赤子の手をひねるようにねじ伏せる、圧倒的な暴力。あの絶望が、また来る。
グレイグの執務天幕に、ランプの光だけが揺れる重苦しい空気が満ちる。
「こっちには、皇帝陛下から賜った、立派な“おとり”があるからな」
司令官の言葉に、息を呑んだ。分かっていた。それが最も合理的で、効果的な策だと。だが、あの化け物の前に、この少女を晒すというのか。
咄嗟に反論が喉まで出かかった。しかし、それは赤い帳の奥から響いた、冷静な声に遮られる。
「……本気で、私を囮にするおつもりですか」
その声に、怯えはなかった。ただ作戦の意図を問う、冷徹な軍師の声。
そうだ。この子はもう、守られるだけの存在ではない。我々が命を預けた頭脳。全身全霊で守り、そして生かさねばならない、勝利への唯一の道標。
私は、奥歯を強く噛み締めた。
恐怖を振り払え。過去の敗北に囚われるな。
私の役目は、彼女の知略を完璧な戦術へと昇華させ、兵を動かすこと。そして、いかなる脅威からも彼女を守り抜く剣であり、盾となることだ。
グレイグ司令官がいて、リナがいて、私がいる。
かつて鳥籠で孤独に戦っていた私ではない。私たちは今、共に戦う「戦友」なのだ。
私は、赤い帳が下ろされた豪華な輿をまっすぐに見据えた。
あの理不尽な悪夢に、今度こそ、この小さな軍師と共に立ち向かう。
鋼の淑女と呼ばれた私の心に、新たな覚悟という名の熱い鋼が注ぎ込まれるのを、確かに感じていた。