作品タイトル不明
第217話:『軍港の丘、潮風に誓う』
歴史的な合同軍事会議が幕を下ろして数日。
軍港都市アクア・ポリスは、静かな、しかし確かな熱を帯びていた。カモメの鳴き声に混じり、港からは荷を積む男たちの威勢の良い声と、船体を軋ませる音が絶え間なく聞こえてくる。兵士たちの鋭い号令が、潮の香りを運ぶ風に乗って響き渡っていた。
巨大な計画の歯車が、今まさに動き始めたのだ。
司令部のひんやりとした石の廊下を歩けば、固く閉ざされたどの扉の隙間からも、熱を帯びた声が漏れ聞こえてくる。
ある部屋からは、グレイグ中将とライナー衛士長の怒鳴り声に近い議論が。広げられた地図をさす指に力がこもり、国境を越えた『大陸防衛軍』の編成を巡って互いの戦術思想が火花を散らす。
隣では、ランプの灯りの下、ロッシ中将たちが海図に顔を寄せ合っていた。その目には徹夜の疲労が滲む。対アルビオンの海上封鎖線と諜報組織『アルゴス』の航路確保。ここで交わされる言葉が、既にいくつもの指示となって前線へ飛んでいる。
マリア様の部屋の前を通りがかると、『囁きの小箱』からグラン宰相とマルコの、一歩も引かぬ交渉が聞こえた。経済特区を巡る言葉の刃が、静かに、鋭く交わされている。
誰もが己の役割を理解し、一年という刻限の中で成すべきことを見据えている。私が何かを指示するまでもなく、それぞれの専門家たちが自律的に動き出していた。
その頼もしい声の渦を背に受け、私は静かに安堵の息をつく。私の役目は、彼らが霧に迷った時、羅針盤として往くべき未来を指し示すことだけ。
こうして私は図らずも、数日間の完全な休暇を手に入れたのだ。
『天翼の軍師』の仮面を外し、ただの書記官リナとして。
◇◆◇
翌朝。街を見下ろす丘の上が、柔らかな陽光に満たされている。
「リナ様、先日のお店へ、また行かれませんか?」
街へ繰り出す準備をしていたセナさんが、期待に満ちた目で誘ってくれた。私は苦笑してそっと首を横に振る。
「ううん。私が歩くと、ゲッコーさんたちが大変だから。それに、街の皆さんにも迷惑がかかっちゃう」
「では、どうしましょう……」
セラさんが困ったように眉を寄せた、その時だった。
完璧なタイミングで、背後から澄んだ声がかかる。
「お嬢様方。でしたら、私がピクニックのご用意をいたしましょうか」
振り返ると、いつの間にかマリア様の執事であるリリィが、音もなくそこに立っていた。
◇◆◇
兵士たちの訓練場を見下ろす、小高い丘の一角。
そこには、まるで絵本から抜け出してきたような光景が広がっていた。
潮風に純白のテーブルクロスが軽やかにはためき、磨き上げられた銀食器が陽光をきらりと弾く。中央には、先日私たちが絶賛したパティスリーのホールケーキが、誇らしげに鎮座していた。
「……すごい……」
思わず感嘆の声が漏れる。この全てを、リリィがたった一人で瞬く間に準備したというのだから。
マリアは目の前の光景にうっとりと目を細め、満足げなため息をついた。紅茶を淹れるリリィの滑らかな手つきを慈しむように見つめ、ぽつりと呟く。
「……リリィ。あなたの手にかかれば、どんな場所もわたくしのための特等席になるのね。その手際の良さ、細やかな気配り……まったく、驚かされるわ」
それは単なる賞賛ではなかった。これまで見てきた彼女への、心からの感嘆と信頼が滲んでいる。
「あなたほど誇らしい執事はいない。わたくしの自慢よ」
マリアが悪戯っぽく微笑む。その言葉に、それまで完璧な硝子人形のようだったリリィの表情が、初めて微かに揺れた。
「……っ」
白い頬が薄く朱に染まり、彼女は小さく息を呑む。完璧なカーテシーと共に優雅に頭を下げると、くるりと背を向けた。紅茶の準備にかかるふりで、その動揺を懸命に隠しているのが、震える肩先から伝わってきた。
その一瞬を見逃さない視線が二つ。
遠くの木陰で、ハヤトが面白そうに口の端を歪める。
「へぇ、あんな顔もするんだな」
そして、訓練場の建物の屋根。陽炎の向こうで、ゲッコーがその傷だらけの貌に、誰にも見せることのない柔らかな笑みを浮かべていた。
私たちは芝生に座り、雄大な景色を前に最高のカフェテラスを味わう。フォークを入れたケーキの甘い香りが、ミルクたっぷりのカフェラテの湯気と混じり合う。遠くで響く海兵たちの力強い掛け声が、心地よいBGMのようだった。セラさんとヴォルフラムさんも、今日ばかりは護衛の任を忘れ、穏やかな表情で紅茶を口に運んでいる。
平和な、午後のひととき。
ふと、孤児院のみんなを思い出す。トムの悪戯っぽい笑顔、アンナのはにかんだ表情。この綺麗な海を見たら、この美味しいケーキを食べさせてあげたら、あの子たちはどんな顔をするだろう。
薄暗い食堂。固い黒パンと水っぽいスープ。それでも、みんなで笑い合ったかけがえのない日々が、鮮やかに胸に蘇る。
――そうだ。私は、あの子たちのために。
カップを持つ指先に、力がこもる。軍師として、多くの命を奪った罪悪感は、決して消えない。神にも等しいと言われた力が、いつか私自身を蝕むかもしれない恐怖は、心の奥底に澱のように溜まっている。
それでも。
私が戦う理由は、ただ一つ。
あの子たちが、お腹いっぱいご飯を食べて、暖かいベッドで眠り、何の心配もなく笑い合える未来。
その未来のためならば、私はどんな罪も背負う。どんな運命も受け入れよう。
私はカフェラテのカップを、そっとソーサーに置いた。
どこまでも広がる青い海を、まっすぐに見つめる。
その瞳にはもう迷いはなく、守るべきものを持つ者だけが宿す、強く、そして優しい光が静かに燃えていた。
......そして、物語は次章へ。