作品タイトル不明
第216話:『一年という名の夜明け』
円卓の間に満ちた熱気が、まだ肌を焼くようだった。
皇帝陛下の英断。大陸の未来を賭けた計画が承認された、その高揚感の頂点で、私は静かに冷水を浴びせた。
「――ですが陛下。この計画が形を成すには、時が要ります」
再び円卓に広げられた大陸地図を、白い指先がなぞる。
「運輸網の整備、新都市の建設、そして何より『鋼の翼』の開発。そのすべてが軌道に乗るまで、最低でも一年。……我々には、一年という時間が必要です」
その一言が、熱を帯びた空気を鋭く切り裂いた。誰もが息を呑み、居並ぶ重鎮たちの顔に緊張が走る。
「この一年、我らがすべきはただ一つ。守りに徹し、来るべき決戦に備えること。『大陸防衛軍』は国境線の防衛と練度の向上に専念し、決して深追いはしない。『アルゴス』は、その全力をアルビオン本国への潜入と情報収集に注ぎ込むのです」
私は傍らに控えるエンリコ少将へと視線を送る。拘束したデニウス、そしてマリア様の配下となったリゼット。彼らの持つ情報と人脈は、未知の大国を穿つ楔となる。彼は無言で、しかし力強く頷き返した。
「一年……か」
皇帝陛下が重々しく呟く。玉座の肘掛けを、指がゆっくりと叩く音が、静寂に響いた。
トン……トン……。
やがてその音が止まる。
「……短いようで、長い。だが、やるしかないな」
その言葉が合図だった。
アルフォンス新王が、グラン宰相が、そして円卓に座すすべての者が、覚悟を決めた顔で深く頷いた。
大陸の歴史上、最も長く、濃密な一年が、今その幕を開ける。
◇◆◇
会議が終わり、人々はそれぞれの思いを胸に席を立つ。歴史的な決定の重圧。見えない敵への焦燥。そして、輝かしくも険しい未来への期待。それらが混じり合った空気が、部屋を満たしていた。
皇帝ゼノンはひとり玉座を離れ、窓辺に立つ。ガラスに映る己の顔の向こうに、どこまでも広がるアクア・ポリスの青い海。一人の少女が描いた壮大な構想に、この大陸の命運を託す。その覚悟が、静かな炎のように瞳の奥で揺らめいていた。
武骨な音を立てて、グレイグとロッシの拳が強く突き合わされた。言葉はいらない。彼女が示した未来図を現実のものとするため、旧時代の軍人である我らが新しい時代の礎となる。血と鉄で築かれた古い常識を、自らの手で壊すのだ。無言の誓いが、二人の猛将の間で火花を散らす。
アルフォンス新王は、白くなるほど固く拳を握りしめている。あまりに大きい、彼女との見識の差。だが、この一年で必ず追いついてみせる。王として、一人の男として、彼女が見る世界を同じ高さで見るのだと。隣でグラン宰相は、山積みの課題に眩暈を覚えるようにこめかみを押さえ、それでも確かに口元に笑みを浮かべた。
パチン、と乾いた音が響く。マリアが扇を閉じた音だった。盤面は大きく動いた。この一年、どの駒をどう動かし、この遊戯を最も面白いものにするか。扇の影で、彼女の瞳が愉悦に細められた。
◇◆◇
やがて扉の閉まる重い音が響き、喧騒は遠のいていく。
静寂に包まれた会議室に、私一人が残された。
ゆっくりと窓辺へ歩み寄り、ガラスにそっと額を押し当てる。ひんやりとした感触が、燃え立つ思考を鎮めていくようだった。
眼下には、陽光を浴びて輝くアクア・ポリスの港が広がる。
(……始まった。私の、本当の戦いが)
一年。
その限られた時間で、私はこの大陸のすべてを変える。
けっして不幸な未来は選ばせない。いかなる策が講じられようと、すべてを読み切り、対処してみせる。失敗は許されない。
大切な人たちを守るために。
そして、いつかただの少女リナとして、あの温かい場所へ帰るために。
「――一年……」
誰に聞かせるともない誓いが、唇からこぼれ落ちた。
「一年で、すべてを変えてみせる」
ふと気配を感じて振り向けば、いつからかセラとヴォルフラムが両脇に佇んでいた。音もなく、影のように。ただ静かに、私の剣として、盾として。その変わらぬ佇まいが、何より雄弁に忠誠を語っている。
窓の外で、海を渡る風が強く吹き抜けた。
新しい時代の匂いを乗せた風が、私の髪を静かに揺らす。