作品タイトル不明
第147話:『北の誓い』
天を貫く峻嶺に抱かれた『北壁』の砦。
肌を削ぐように吹き荒れる風が、練兵場の乾いた土を巻き上げる。その中で、鋼と鋼が打ち合う甲高い残響だけが、絶え間なく空気を震わせていた。
ヴォルフラムと、シュタイナー中将。
常人には目で追うことすら叶わぬ二人の剣戟は、もはや砦の日常の光景と化していた。
だが、今日のヴォルフラムの剣は、明らかに何かが違った。
シュタイナーが放つ変幻自在の剣の嵐を、彼女はもはや目で追っていない。風のうねりを肌で読み、師の呼吸の僅かな乱れを聴き、その闘気そのものを捉えている。
柳の枝が暴風を受け流すがごとく、最小限の動きで苛烈な一撃をいなし、返す刃は剃刀のように鋭く空間を切り裂いていく。
彼女はただの『剣』から、戦場そのものを支配する不動の『盾』へと、その在り様を静かに変えつつあった。
壮絶な打ち合いが終わり、両者の剣がゆっくりと離れる。
肌に汗の筋が光るヴォルフラムの元へ、シュタイナーの副官が鎧を鳴らし、息を切らして駆け込んできた。その手に握られていたのは、グレイグ中将の紋章が押された緊急の親書。
リナが、敵の手に落ちたことを告げる、絶望の、報せだった。
シュタイナーは無言でそれをヴォルフラムに手渡す。
羊皮紙の乾いた感触。そこに並んだ文字に目を通した瞬間、彼女の世界が音を立てて砕け散った。
全身から急速に血の気が引き、視界が真っ白に染まる。紙に刻まれた残酷な文字だけが、熱い鉄印のように脳を焼き付けた。
『――天翼、敵手ニ落ツ』
「……あ……」
震える唇から、意味をなさない声がこぼれ落ちる。
呆然と立ち尽くす彼女の指が、何かに縋るように愛剣の冷たい柄を握りしめた。その硬質な感触だけが、凍りついた思考をかろうじて現実へと繋ぎ止める。
風と、鎧の擦れる音だけが響く静寂の中、彼女はゆっくりと師に向き直った。
その瞳に、悲しみの色はなかった。
ただ、どこまでも深く、澄んだ蒼い輝きがあった。
主君を奪い返し、敵を殲滅する。
鋼のように微塵も揺るがぬ決意が、その双眸に宿っていた。
彼女は、師であるシュタイナー中将へ、鎧の軋む音をさせながら深く、深く、頭を下げた。
「――中将閣下。これより南へ向かう許可を、お願い申し上げます」
覚悟の定まった声が、風に溶ける。
シュタイナーはしばらく何も答えなかった。ただ、その鋭い目が、沈黙のまま弟子の成長を見極めている。
やがて彼は、重々しく口を開いた。
「……ヴォルフラムよ。お前がまだ未熟であることは、重々承知の上であろうな」
厳しい問いに、ヴォルフラムは顔を上げぬまま答える。
「……はい。この身に染みております」
「ふん」
シュタイナーは短く鼻を鳴らした。
「今のお前ならば、あのちっこい軍師殿の『盾』くらいにはなれよう」
それは、彼なりの最大限の賛辞だった。
「――行け」
静かに、しかし力強く、シュタイナーは命じた。
「そして、必ず主君を取り戻してこい。その修練の成果、存分に示してみせろ」
彼は、そこで一度言葉を切り、付け加えた。
「……ただし、勘違いするな。事が済めば、この稽古の続きをやる。覚悟しておけ」
その不器用な激励に、ヴォルフラムの唇の端に、初めて微かな笑みが浮かんだ。
「――はっ! 謹んでお受けいたします!」
漆黒の軍馬に嵐のように飛び乗ると、ヴォルフラムは砦を飛び出した。
石畳を蹄が蹴立て、火花を散らす。黒い疾風が、南へと向かって駆けていく。
見送るシュタイナーの背に、風が強く吹き付けた。
◇◆◇
数日後。帝都の宰相執務室。
アルバートは、目の前の来訪者に僅かに目を見張っていた。旅の汚れもそのままに、しかし以前とは比べ物にならぬほど研ぎ澄まされた気をまとうヴォルフラムが、そこに立っていたからだ。その佇まいは、鞘に収まっているのが不思議なほどの抜き身の刃を思わせた。
「――宰相閣下。天翼の軍師殿の件、最新の情報を」
静かだが、張り詰めた声だった。
「………よく来たな、ヴォルフラム殿」
アルバートは彼女の覚悟を瞬時に悟り、セラから届けられたばかりの戦況報告書を静かに差し出す。
「天翼の軍師殿は、海の上と考えられる。それを追うため、マキナ局長が南の軍港で新型船を開発中、とのこと」
その情報が、彼女の行く先を定めた。
「……感謝、いたします」
短く礼を述べると、ヴォルフラムは迷いなく踵を返す。
彼女の視線は、既に帝都の壁の向こう、遥か南の海原を見据えていた。