作品タイトル不明
第127話:『北壁の叱咤、騎士の再鍛』
天を貫く峻嶺は、見る者の心を凍らせるかのようにどこまでも続く。帝国の北方を守護する『北壁』の砦は、その神々しいほどに雄大な自然と一体化し、黒い岩肌を晒して静かに佇んでいた。骨まで削るような剃刀の風が吹き荒れる中、その威容は絶対的な存在感を放っている。
砦の門を、一騎の騎士がくぐった。その姿は、帝都へと発った日の、あの誇らしげな面影を失っていた。
陽光を弾いていたはずの鎧は鈍色に沈み、乗り手の纏う空気は、北からの風よりもなお冷たく重い。旅の疲れだけではない。ヴォルフラムの肩には、主君を守りきれなかったという鉛のような後悔がのしかかっていた。伏せられた睫毛の奥、光を失った瞳の底では、消えぬ屈辱の炎が今もなお赤黒く燻っている。
旅の汚れを落とす間も惜しみ、彼女はまっすぐに主塔を目指す。すれ違う兵士たちが、驚きと憐憫の入り混じった視線を向けるが、今の彼女には届かない。目指すは一つ、シュタイナー中将の執務室。分厚い樫の扉の前で一度だけ、凍てついた肺を満たすように息を吸い、迷いなく拳で扉を叩いた。
「――入れ」
地響きのような声。変わらぬ主の声だった。
扉を開けると、インクと古い羊皮紙の匂いが鼻をつく。部屋の主は、壁一面の戦況図を背に、椅子へ深く身を沈めていた。手元の書類に目を落としたまま、顔を上げようともしない。
ヴォルフラムは室内に足を踏み入れると、その場で音もなく片膝をつき、石の床の冷たさが染み渡るのも構わず、額が触れんばかりに深く頭を垂れた。
「シュタイナー中将閣下。ヴォルフラム、ただいま帰参いたしました」
返事はない。ただ、シュタイナーのペンが羊皮紙を引っ掻く音だけが、部屋の静寂を切り裂いていた。どれほどの時が経ったか。やがて、全てを見透かすような平坦な声が降ってきた。
「……戻ったか。して、その様はどうした。どこの泥濘で転がってきた」
ヴォルフラムは顔を上げない。だが、その声に震えはなかった。砕けた誇りの欠片を己の魂で溶かし、再び打ち直した鋼のような決意が籠っている。
「お言葉通りです。私は、敗北いたしました。リナ様の御身を危険に晒し、お側を離れるという万死に値する失態を犯しました」
己の罪を告白する。
「――分かっております。私は、あまりにも未熟だった。故に!」
弾かれたように顔を上げた。血走った双眸が、射抜くような光を帯びてシュタイナーを捉える。
「このヴォルフラム、恥を忍んで再び閣下の元へ! どうか私を、一から、鉄屑から打ち直していただきたく!」
魂を絞り出すような叫びだった。
「今度こそ、リナ様を完璧に守り切る『盾』となるために!」
その言葉に、シュタイナーは初めて書類から顔を上げた。年輪のように刻まれた顔の皺を動かし、ヴォルフラムの顔をじっと見つめる。そして、その厳つい貌に、わずかだが確かな満足の笑みが浮かんだ。
「……ふん。その言葉を待っていた」
彼は立ち上がり、その巨躯でヴォルフラムの上に巨大な影を落とす。
「分かっておるようだな、ヴォルフラムよ。貴様の剣は鋭く、速く、重い。だが、それだけでは足りんのだ。あの小柄な軍師殿の隣に立つには、な」
節くれだった巨大な手が、ヴォルフラムの肩に置かれた。骨が軋むほどの重さに、彼女は息を呑む。
「貴様に不足しておるのは、剣技ではない! 周囲の気配、人の心の機微、戦場の流れ、その空間そのものを支配する『眼』だ! 戦場は訓練場ではないぞ! 敵は正面からだけ来るとは限らん! 見えざる敵の意図を読み、二手三手先を潰す! それができて初めて、お前は真の『盾』となれるのだ!」
叱咤は、雷鳴となって彼女の心臓を撃ち抜いた。それは、常に盤面全体を見ていた主君、リナが体現していた戦い方そのものだったからだ。
「――精進せよ! ヴォルフラム!」
シュタイナーの声が、砦の石壁を震わせた。
「……はいッ!!」
もはや迷いのない返事が、力強く響き渡った。
その日から、ヴォルフラムの地獄が始まった。
それは、もはや訓練と呼べるものではない。再鍛成の儀式だった。
闇夜の森林で、視界を閉ざし、獣の息遣いと枝の揺れだけでその位置と数を読む。
そして何より過酷を極めたのは、練兵場で行われる、シュタイナー本人を相手にした模擬戦だった。
砦の兵士たちが、遠巻きにその異様な光景を見守っている。最初は「あのヴォルフラムが直々に教えを乞うている」と興味本位だった彼らの顔から、次第に血の気が引いていく。
「おい、あれは訓練じゃないぞ……」「中将は本気だ。殺す気だ」
囁き声はすぐに途絶え、誰もが息を殺して、二人の死闘を見つめていた。
シュタイナーの木剣が唸りを上げて空気を裂く。ヴォルフラムはそれを辛うじて受け止めるが、衝撃は腕を痺れさせ、骨の芯まで響いた。彼の剣は力任せではない。ヴォルフラムの重心、呼吸、視線の僅かな動きを捉え、常に一手先を打ってくる。
一合、二合と打ち合ったかと思えば、足元の土砂を蹴り上げられ視界が白に染まる。思考するより早く、背後に死の気配。振り返る暇はない。ヴォルフラムは咄嗟に身を投げ出し、背後の地面に転がった。直後、先ほどまで頭のあった空間を、木剣が轟音と共に薙ぎ払う。
「どこを見ている! 敵は目の前の一人だけか!」
怒声と共に脇腹を木剣が抉り、肺から空気が強制的に絞り出される。
「背後の風の音を聞け! 伏兵の気配を読め! お前の主君は今どこにいる!」
体勢を崩したところを足払いで投げ飛ばされ、硬い地面に叩きつけられた。視界が白く点滅する。
「立て! その程度で守るべき者を守れるか!」
血反吐を吐き、泥に塗れながら、彼女は何度も立ち上がった。全身が悲鳴を上げ、意識が遠のきそうになるたび、脳裏にあの小さな主君の姿が浮かぶ。
再び、あの人の隣に立つために。その背を、誰にも脅かさせないために。
夕陽が峻嶺を赤く染める頃、練兵場に倒れ伏すヴォルフラムの姿があった。だが、泥と血に汚れたその瞳から、光は決して消えなかった。
北の厳しい大地が、一人の騎士を静かに、しかし確実に打ち直していく。
その剣筋から若さゆえの荒々しさが削ぎ落とされ、代わりに、戦場の全てを見通す冷徹な輝きが宿り始めていた。帝国最強の「盾」となるために。
シュタイナーは木剣を肩に担ぐと、倒れたままのヴォルフラムに冷たい一瞥をくれ、無言で背を向けた。
練兵場の隅で訓練の一部始終を青ざめた顔で見守っていた若い女性士官に、彼は歩み寄る。そして、周囲に聞こえぬよう、低い声で命じた。
「……少しやりすぎたか」
独り言のようにも聞こえる響きに、士官が驚いて顔を上げる。シュタイナーは彼女の目を見ず、夕陽に染まる山嶺へと視線を向けたまま続けた。
「医務室へ運べ。傷の手当てと、滋養のある食事を。……特に、冷やすな。あの馬鹿は、放っておけば夜風で体を壊しかねん」
それは、いつもの怒声とは似ても似つかぬ、ぶっきらぼうながらも確かな気遣いの滲む声だった。
「は、はい! ただちに!」
士官が力強く敬礼すると、シュタイナーは「頼んだぞ」とだけ短く告げ、マントを翻してその場を去っていった。