作品タイトル不明
第126話:『英雄の休日と帝都劇場の悪夢』
蔦の絡まる古びた鉄門の前で、一台の豪奢な馬車が場違いな輝きを放っていた。磨き上げられた黒塗りの車体にはグレイグ中将家の紋章が誇らしげに輝き、帝都の埃っぽい空気とは一線を画している。
やがて馬車から降り立ったのは、軍服を隙なく着こなした副官ハンスだった。厳つい顔つきに刻まれた傷跡とは裏腹に、その立ち居振る舞いは礼節に満ちている。
「――聖リリアン孤児院の院長、アガサ殿でお間違いないかな?」
低く、しかしよく通る声だった。突然の帝国軍高官の来訪に、院長のアガサは使い古したエプロンを固く握りしめ、こわばった声で答える。
「は、はい。……そうでございますが……」
だが、ハンスが続けたのは、想像を絶する言葉だった。
「我が主君、グレイグ中将より、皆様を帝都へご招待したく参上いたしました」
「……え?」
「中将は、リナ殿の働きを誰よりも高く評価しておられます。そして、彼女が常にあなた方のことを案じ、『子供たちに笑顔になってほしい』と願っていることも。……これは、中将からのささやかな贈り物とお考えください」
あまりに温かい申し出に、アガサの視界が滲んだ。遠い場所でたった一人戦っているあの子が、こんなにも優しい形で認められている。その事実が、熱い奔流となって胸に込み上げた。彼女は何度も、何度も深く頭を下げ、震える声でその招待を受け入れた。
この粋な計らいの真の発案者が、玉座に座る皇帝陛下その人であることを知る者は、まだ誰もいない。
◇◆◇
数日後。私はセラさんに「少しは羽を伸ばしなさい」と半ば強引に腕を引かれ、帝都の街へ連れ出されていた。
行きつけになった洒落たカフェの三階、陽光が降り注ぐテラス席。眼下には活気に満ちた帝都の街並みが広がり、市場の喧騒が心地よいBGMのように聞こえてくる。運ばれてきたばかりのケーキから漂う甘い香りに頬を緩ませ、一口頬張った、その時だった。
「――ん?」
ふと、カフェの下の通りがやけに騒がしいことに気づく。
見下ろせば、大きな一台の馬車から、見慣れた小さな影がぞろぞろと降りてくるところだった。着古しているが清潔な服。不安と好奇心がないまぜになった、きらきらと輝く瞳。
間違いない。
「――みんな!?」
思わず身を乗り出して叫ぶと、子供たちも一斉にこちらを見上げた。
「あ! リナだ!」「リナお姉ちゃんだ!」
次の瞬間。古い木の階段が割れんばかりの音を立て、弾むような足音が猛烈な勢いで近づいてくる。
「リナ! 会いたかった!」
「お菓子は!? お菓子持ってきた!?」
「リナだ! 本物のリナだ!」
あっという間に小さな弟や妹たちに群がられ、私はその温かいもみくちゃの輪の中で、ただ笑うことしかできなかった。一人ひとりの頭を撫でてやると、みんな猫のように嬉しそうに目を細める。懐かしい匂いと柔らかな髪の感触に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
その子供たちの輪の向こうで、院長のアガサが涙を浮かべ、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。彼女はゆっくりと私のそばに歩み寄ると、その皺の刻まれた優しい手で、私を骨がきしむほど強く、しかし大切に抱きしめてくれた。
「……リナ。……あなたは本当に、凄い子ですね。本当に、よく……」
その言葉と、温もり。
私の心の奥底で、ずっと張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……う……うわあああああああん……!」
アガサの胸に顔をうずめ、私は声を上げて泣いた。『天翼の軍師』でも男爵でもない。ただの泣き虫の、リナに戻って。
◇◆◇
ひとしきり泣いてすっきりした後、私は赤くなった目でみんなに向き直った。
「さあ! 今日は私がどこへでも連れて行ってあげる! みんな、どこへ行きたい?」
その問いに、子供たちは声を揃えて叫んだ。
「「「――げきじょう!!」」」
「…………え?」
私の笑顔が凍りつく。
劇場の前には今、悪趣味なほど金文字で飾られた、あの看板が掲げられているはずだ。
『新生・天翼の軍師伝説! 麗しの銀髪の賢姫、その愛と奇跡の物語!』
「え、いや、あの、もっと楽しい場所とか……ほら、動物園とか……」
「いくのー!」「みにいこうよー!」
「軍師様、すごいんだって! 空も飛ぶんだよ!」
「悪者をバッサバッサやっつけるんだ!」
口々に語られる、まだ見ぬ私の英雄譚。その純粋でキラキラした期待の眼差しが、何より重い圧力となって私にのしかかる。もはや、抗う術はなかった。
「……う、ううぅ……わ、分かりました……」
引きつった笑顔で、私は頷いた。
「……い、行きましょうか……劇場へ……」
その日の午後。
帝都のとある劇場の暗がりで、私は弟や妹たちに囲まれていた。舞台上では、私をモデルにした女優が銀髪を風になびかせ、ありえないほど優雅な剣さばきで悪役たちをなぎ倒している。剣を振るうたびに薔薇の花びらが舞い、決め技を放てば七色の光が舞台を包む。クライマックスでは天高く舞い上がり、光の槍を投げつけて魔王を浄化していた。
客席からは割れんばかりの拍手と歓声が上がり、隣では弟たちが目を輝かせて拳を握りしめている。
自らが主役のとんでもなく美化された英雄譚を、その張本人が観劇させられる。
それは、どんな戦場の記憶よりも過酷な、この世のものとは思えない拷問のような時間であったという。