作品タイトル不明
第125話:『熱き工房、北への誓い』
帝都宮廷の一室。
そこは今、帝国で最も熱い場所と化していた。古いインクと羊皮紙の匂いが、男たちの放つ熱気に混じり合ってむせ返るようだ。テーブルには設計図の海と資料の山が広がり、帝国財務官カイ・シュルツェ、ヴェネーリア商人マルコ・ポラーニ、彼らをサポートする各々のエキスパート達。そして『囁きの小箱』から響く声の主、グランとマキナが火花を散らしている。
「否! この税率では初期投資の回収に何年かかると思っている! まずは交易の自由度を上げ、全体の富を増大させるべきだ!」
マルコが身振り手振りを交えて叫べば、小箱からマキナの怒鳴り声が応じる。
『そもそも、この地盤で鉄の軌道を敷くには最新の土木技術が要るんだ! 予算をケチれば百年後に泣きを見るぞ、このド素人が!』
「ですがマキナ局長! その莫大な予算を一体どこから捻出すると仰るのですか!」
カイが額の汗を拭い、眼鏡を押し上げながら悲鳴に近い声を上げた。
あまりに専門的で、高密度な言葉の応酬。
私は少し離れた場所で、セラが淹れてくれた紅茶の湯気を眺めていた。カップから伝わる温かさだけが、この部屋で唯一の穏やかさだった。
(すごいな、専門家というのは……。予想はしていたけれど、歯車が噛み合った後の議論は、もう私の手を離れていく)
やがて、嵐のような議論がふと途切れ、全員の視線が最終判断を仰ぐように私へと注がれた。静寂が部屋を支配する。
私はゆっくりとカップをソーサーに置いた。カチャリ、という小さな音がやけに大きく響く。
そして、『天翼の軍師』の仮面の下で、心からの笑みを浮かべた。
「――素晴らしい。実に見事な議論です。私の乏しい発想など、もはや不要のようですね」
そして、清々しいほどの声音で言い放った。
「このまま進めて頂いて大丈夫です。皆様でしっかり議論をお願いします。よしなに」
その、あまりに潔い「丸投げ宣言」に、その場の全員が虚を突かれたように固まる。
一拍、二拍。
沈黙を破ったのは、マルコの堪えきれないといった噴き出す音だった。それが伝染し、カイは困ったように眉を下げて苦笑し、小箱の向こうからも呆れたような、しかしどこか楽しげな溜息が聞こえてきた。
私の蒔いた種は、最高の専門家たちという土壌を得て、今、確かに芽吹いたのだ。
◇◆◇
その日の午後。
帝都の館に、北のシュタイナー中将からの親書が届いた。硬質な羊皮紙に押された狼の封蝋。それを剥がすと、インクに込められた力強さまで伝わってくるような、簡潔な命令が記されていた。
――ヴォルフラムを北部方面軍へ帰還させよ。
自室に呼び出したヴォルフラムは、その文面に目を通すと、唇をきつく結んだ。完璧な敬礼と共に発せられた「はっ! 承知いたしました」という声に、微かな震えが混じる。
その硬い表情の奥で、彼女の心が激しく揺れているのが見て取れた。
『……ふがいなかったからだ……』
あの夜の記憶が、焼きごてのように彼女の脳裏を焦がす。
闇を切り裂いて現れた敵。主君を守るべき剣は、あまりに軽く弾き飛ばされた。伸ばした手は空を掴み、目の前で主が攫われていく光景だけが、スローモーションのように焼き付いている。地面に叩きつけられた頬の痛み。土と血の味。そして、骨身に染みるほどの無力感。
シュタイナー中将は、口には出さない。だが、師の意図は痛いほどわかった。
これは「監視が不要になった」のではない。
「今の貴様では、あの御方を守りきれん。一から鍛え直せ」
――師からの、厳しくも愛情に満ちた叱咤だった。
「ヴォルフラムさん」
彼女の葛藤を見透かすように、静かに声をかける。
「あなたには、本当に助けられました。私の命は、あなたがいてくれたからこそ此処にある。……ありがとう」
仮面越しの、飾りない感謝の言葉。その一言に、ヴォルフラムの瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに潤んでいく。
彼女は何も言わず踵を返し、扉へと向かう。だが、まさに部屋を出ようというその瞬間、勢いよく振り返った。その目には、涙の膜を突き破るように、決意の炎が燃え上がっていた。
「――ですが、これは別れではありません!」
絞り出すような声が、やがて揺るぎない誓いとなって響き渡る。
「私は必ず戻ってまいります! 次にお会いする時、私は中将閣下をも超える帝国最強の盾となり、必ずや、あなたの御前にお仕えしてみせます!」
「ですからリナ様! それまで、どうかご無事で! 必ず、必ず戻ります故!」
その魂の叫びに、私はただ力強く頷き返すことしかできなかった。
馬に跨り、北の厳しい大地へと去っていくヴォルフラムの凛々しい後ろ姿を、私はセラと共に窓から見送っていた。石畳を打つ蹄の音が遠ざかり、やがて冬の気配を孕んだ風の音に溶けていく。
一つの季節が終わった。
そして、また新しい季節が始まろうとしている。
私は空を見上げた。これから始まる国創りという、血の流れない、しかし何よりも苛烈な「戦い」に、静かに思いを馳せながら。
石畳を打つ蹄の音が遠ざかり、街道の彼方にその姿が消えていく。
一つの季節が終わり、新たな風が吹く。