作品タイトル不明
95.
ゲータニィガ王城の一角に急造された執務室には、ペンが紙を擦る乾いた音だけが響いていた。
机の上には、未処理の書類がまるで山脈のように連なっている。
その奥で、副官のティルが「ひぃぃ、手首がもげるですぅ」といつものように半泣きになりながら、猛烈な速度で羊皮紙に文字を書き込んでいた。
そこへ、杖をついた大賢者ピクシーがふらりと姿を現した。
「根詰めてないかい、ティル。少し休憩した方がいいんじゃないかな」
「あ、ピクシー先生。大丈夫ですぅ。この決裁を通しておかないと、明日の人事配置に響いちゃいますからぁ」
ティルは顔を上げず、震える手でインク壺にペンを浸す。
その目の下にはうっすらとクマが浮かんでおり、誰の目から見ても限界が近いのは明らかであった。
「泣き言を言いながらも、どうしてそこまで頑張るんだい」
ピクシーが呆れたように、けれどひどく優しい声で尋ねる。
ティルは少しだけペンの動きを遅くし、犬のような耳をペタリと伏せて答えた。
「そりゃあ……。だって、ミシェル様のためですぅ」
ティルの小さな背中から、主に対する深い忠誠心が滲み出る。
「あの人、いつも氷みたいに冷たくて、仕事に厳しくて、本当に怖い人ですぅ。でも、すごくいい人なんですよぉ」
「ティルを、自分の直属の副官に登用してくれたからかい」
「ですぅ。……私、人間じゃないですから」
ティルは自嘲気味に笑い、自身の長い耳を撫でた。
「帝国は昔よりずっとマシになったとはいえ、まだまだ亜人に対する差別は根強く残っているんですぅ。どれだけ計算が早くて実務能力があっても、重要な役職からは外されてばかりでしたからぁ」
「そうだったね。ギデオンが皇帝になる前の帝国は、本当に酷い有様だった」
「はい。でも、ミシェル様だけは違いました。種族や出自なんて全く気にせず、私の処理能力のデータだけを見て『貴女は有能です。今日からわたしの副官になりなさい』って、引っ張り上げてくれたんですぅ」
ティルの瞳には、当時のミシェルの凛々しい姿が鮮明に焼き付いているようであった。
冷徹妃の合理主義は、時に非情に見えるが、誰よりも公平で温かい真実を含んでいるのだと。
「あの人、仕事に妥協しないから、自分でも無自覚にちょっと無理をするんですぅ。でも、最近はすごく楽しそうでぇ」
「カイウスが来てからだね」
「ですですぅ。ミシェル様が、カイウス様の前でふにゃふにゃに笑っているのを見るのが、私もすごく嬉しいんですぅ。だから、ほんの少しでもミシェル様に恩を返したくて」
ティルは再びペンを握り直し、決意を込めた目で書類に向かった。
「私がここで仕事を巻き取れば、ミシェル様が子供と遊ぶ時間を、少しでも長く作ってあげられますからね。だから、これくらい全然平気ですぅ」
泣き虫で頼りない副官が語った、健気すぎる本音。
ピクシーは心底愛おしそうに目を細め、「それで、一人で仕事を頑張っているんだね」と深く頷いた。
「はいですぅ」
ティルが力強く答えたところで、ピクシーは静かに執務室の扉を開け、廊下へと出た。
するとそこには、壁に寄りかかり、腕を組んで目を閉じているミシェルの姿があった。
「だってさ、ミシェル。君の部下は本当に優秀で、そして優しいね」
「……聞こえていましたよ。ふん」
ミシェルは中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、小さく鼻を鳴らした。
その横顔はいつも通り無表情に見えたが、耳の先がほんのりと朱に染まっているのを、ピクシーは見逃さなかった。
ミシェルはそのまま執務室の中へと足を踏み入れる。
「ひぃっ、ミ、ミシェル様っ。どうしてここにっ」
「何サボっているのですか、ティル。そのペースでは、明日の朝までに終わりませんよ」
ミシェルはわざと冷たい声を出し、ティルの頭の上にポンと、新たな書類の束を軽く乗せた。
そして、驚いて固まるティルの隣に椅子を引き、静かに腰を下ろす。
「わたしの代わりになろうなど、百年早すぎますよ。仕事は一人で抱え込まず、適切に分配しなさい」
「ミシェル様……っ」
それは、冷徹妃なりの不器用すぎる優しさであった。
ティルは感極まったように目を潤ませる。
「ひぃん、ミシェル様ぁ。一生ついていきますぅぅっ」
「書類が鼻水で汚れます。離れなさい、ティル」
泣きついてくる副官の額を指先でツンと押し返しつつも、ミシェルはどこか心地よさそうにペンを走らせる。
静かな夜の執務室に、二人分のペンの音が、リズミカルに重なって響き始めた。