軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 テオの窓

僕の名前は、テオ。

テオ・メルツ。母さんの名字。父さんの名字は、使えない。使えないことの理由を、僕は知っている。

知っている。全部。

父さんが何をしたか。二つの家を持っていたこと。あちらの奥さん──カタリーナさんが、堤防を直して、帳簿をつけて、十年間一人で領地を回していたこと。それを全部、父さんの名前で王都に報告していたこと。

母さんは教えてくれなかった。

でも、手紙が来なくなった頃から分かった。社交界の夫人たちが訪ねてこなくなったこと。安宿に移ったこと。母さんの顔から、あの穏やかな微笑みが消えたこと。

安宿の壁は薄い。夜、母さんと父さんの声が聞こえた。母さんが何か訴えていて、父さんが黙っていた。黙っている音がする。声がないのに、黙っている、ということだけは分かった。

僕が悪いわけではない、と母さんは言った。

悪くないのは分かっている。でも、僕がいなければ、父さんは別邸を持たなかった。母さんは「遠縁の未亡人」を演じなくてよかった。カタリーナさんは、あの日馬車の窓から庭の僕を見なくてよかった。

存在しないことはできないから、その代わりに、黙っていた。学校でも、安宿でも、どこにいても。なるべく小さく。なるべく目立たないように。僕がここにいることを、誰にも気づかれないように。

学園に入った。母さんの名字で。平民枠で。学力試験を受けて。

試験勉強は一人でやった。父さんには頼めなかった。あの人は、勉強を教えるような父親ではなかった。そもそも、一緒にいる時間がほとんどなかった。王都の別邸にいた頃だって、父さんは「出張」でいないことが多かった。

(──出張。あの言葉を、カタリーナさんも十年間聞いていたのだ)

入学式の日。

門の外に、父さんがいた。

入る資格がないから、鉄格子の外に立っていた。痩せていた。上着に皺があった。頬の肉が落ちて、あの余裕のある笑顔がどこにもなかった。

目が合った。父さんが口を開いた。何か言おうとしていた。声は聞こえなかった。距離があったから。

(──聞こえなくてよかった)

何を言われても、今の僕には応えられない。「頑張れ」と言われても、「ありがとう」とは返せない。だって、僕がこの門の中に入れるのは、母さんの名字と、自分の学力試験の点数のおかげだ。父さんのおかげではない。

門の中に入った。振り返らなかった。

エーリヒと同じ学年だった。

最初は避けた。あの人の、カタリーナさんの息子。僕が誰の子か、彼は知っているはずだ。顔を合わせたくなかった。廊下ですれ違う時、視線を外した。食堂で近くに座らないようにした。

教科書を忘れた日があった。法律の授業。朝の寮で鞄を開けて、ないことに気づいた。取りに戻る時間はない。

教室に入ると、隣の席がエーリヒだった。

血の気が引いた。よりによって。隣の席。

授業が始まった。教科書がない。手元が空っぽで、教官の声だけが頭の上を流れていく。

、エーリヒが、何も言わずに自分の教科書を机の真ん中に寄せた。

「見えますか」

それだけ言って、ノートを取り始めた。

声は硬かった。けれど冷たくはなかった。

(……怒ってないの?)

僕のことを憎んでいると思っていた。父さんのせいで、エーリヒは父親のいない家で育った。朝五時に母親が泥の中に入るのを、窓から見ていた。それを九年間。

憎まれて当然だ。

なのに、教科書を寄せてくれた。

少しずつ話すようになった。法律の授業の後、条文について意見を交わしたのが最初だった。エーリヒは法律の話をよくした。条文を読んで、解釈を議論して。十一歳とは思えないほどいや、十一歳だからこそかもしれない。大人なら「そういうものだ」で片づけることを、この子は「なぜそうなっているのか」から始める。

ある日、聞いた。廊下の窓際で。夕日が石畳を赤く染めている時間。

「怒ってないの」

「何に」

「僕が、いることに」

沈黙。窓の外で、学園の鐘が鳴った。夕刻を告げる鐘。

エーリヒが僕を見た。まっすぐに。あの目。全部を見ている目。

「君は何も悪くない」

声は硬かった。けれど温度があった。

「問題は制度だ。手続きをしなかった人間がいて、制度がそれを許した。君に罪はない」

少し間があった。

「……怒る相手を間違えたくない」

(十一歳で、こんなことを言う人間がいるのか)

怒りの矛先を選べる十一歳。感情を制度に変換できる十一歳。この子は、法律書の中に、感情の出口を見つけている。

カタリーナさんが旧辺境伯領の復興顧問になったと聞いた。

父さんが壊した堤防を、直しに行くのだと。

僕の父さんが何もしなかった領地を、あの人が、カタリーナさんが、立て直す。

僕はその堤防を見たことがない。壊れた堤防も、元の堤防も。父さんと母さんと暮らしていた王都の別邸には、庭があった。薔薇が咲いていた。あの薔薇は、カタリーナさんが「辺境の気候では無理だ」と言われた品種だったのだと、後で知った。

僕が走り回っていた庭の薔薇は、あの人から奪ったものだった。

知った日、胃の底が持ち上がるような感覚がした。庭の記憶が、楽しかった記憶が、全部裏返った。犬を追いかけて笑っていた自分が、急にみじめに見えた。あの庭で笑うたびに、カタリーナさんから何かを奪っていたのだ。

存在するだけで、誰かを傷つける。

それでも、存在しないことはできない。

窓の外を見ている。学園の寮の窓。月が出ている。

エーリヒからの手紙が机の上にある。学園のこと。法律の授業のこと。たまに、堤防のこと。「母上が旧辺境伯領の堤防を修復している。石積みの技術が年ごとに上がっていたのだと、ニコラウスが読み取ったらしい」。

返事を書いた。短く。言葉が見つからないから。

「ありがとう」

封をした。

窓の外に星が見える。あの星の下で、誰かが堤防を直している。僕の父さんが壊した堤防を。

(僕はいつか、何かを直せる人間になれるだろうか。壊した人の息子が、直す人に)

分からない。

でも、教科書を寄せてくれた人がいる。「君は何も悪くない」と言ってくれた人がいる。「怒る相手を間違えたくない」と。

だからもう少しだけここにいる。

窓を閉めた。冬の風が冷たかった。けれど机の上のエーリヒの手紙は、少しだけ温かい気がした。

明日の授業は法律だ。隣の席はエーリヒだ。

教科書は、今度は、忘れない。