軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 四十五年の根

この領地に来たのは、十五の時だ。

先代の辺境伯ヘルムート様に拾われた。孤児だった。読み書きができた。それだけで家臣に取り立てられた。以来四十五年、この土地を離れたことがない。

根が張った。木のように。

この土地の土壌も、河の癖も、風の向きも、雨の匂いも、全部体に入っている。春の増水がどの程度になるか、冬の風が吹く方角を見れば分かる。領民の顔を見れば、今年の収穫が良いか悪いか察しがつく。

四十五年分の根。簡単には抜けない。

だから、分かる。本物と偽物の違いが。

カタリーナ様が嫁いできた時。十八歳の令嬢を見て思った。もたないだろう、と。

辺境伯領は穏やかな場所ではない。冬は長く、河は荒く、土は痩せている。夏は短いくせに虫が多い。王都育ちの令嬢が、この泥と石の領地で堤防に膝まで浸かれるとは思えなかった。

一年で音を上げるだろう。半年かもしれない。嫁いで三ヶ月で「実家に帰りたい」と泣き出すのが、過去の例だ。ヘルムート様の先妻もそうだった。

一年目の冬。渇水期。

朝五時に河川敷に降りると──先客がいた。

カタリーナ様だった。長靴を履いて、護岸の石積みに手を触れていた。手帳を開いて、何かを書き留めている。息が白い。指先が赤い。頬が冷たい風で強ばっている。

それでも、石から手を離さない。

一箇所ずつ。目地をなぞって、ひびの有無を確認している。素人の手つきだった。何を見ているのか正確には分かっていない。けれど「何かがおかしい」ことを、指先で感じ取ろうとしている。

(──本物だ)

その朝に思った。

本物か偽物か。四十五年の根が、一目で見分ける。この人は、本物だ。

十年間、仕えた。

全部知っていた。ルートヴィヒ様が王都で何をしているか。別邸のこと。女性のこと。子供のこと。

四十五年この領地にいれば、出入りする商人から噂が入る。王都の宝飾商が「辺境伯のご注文で」と指輪の修繕に来た時、その指輪がカタリーナ様のものではないことくらい分かった。

黙っていた。

家臣は主に仕える。主の秘密を暴くのは忠義ではない──そう自分に言い聞かせた。

黙ってた。知ってて黙ってた。忠義だと思ってた。嘘だ。

怖かったんだ。あの背中が折れるのを見るのが。自分が折った側になるのが。毎朝五時に泥の中に入って、帳簿を一銭の狂いもなくつけて、子供を育てて、領民を守って、その人の横で「旦那様は別の女性と暮らしています」とは。

言えなかった。

言うべきだったのかもしれない。もっと早く。もっと勇気を出して。

けれどあの背中を見ていると、十年間、一度も泣かない背中を見ていると、余計な言葉を足すのが怖かった。あの背中が折れるのを見るのが、怖かった。

(四十五年の根を持つ男が怖かった、とは)

カタリーナ様が去った後。引き継ぎ資料を開いた。

三百二十四頁。

最初の頁から最後の頁まで、二日かけて読んだ。蝋燭を三本使った。目が痛くなった。

全部知っていた。書いてあることは、全部。カタリーナ様と一緒に十年間やってきたことだから。農地の作付けも、水利権の協定も、穀物商の信用度も、ミュラー家の末の子の席の配置も。全部、知っていた。

けれど紙に落とされたそれを読むのは、別のことだった。

この人の十年間が、ここに全部ある。朝五時の長靴。泥の匂い。蝋燭の灯り。一銭の狂いもない数字。識字教室の授業計画。堤防の断面図。水門の開閉スケジュール。領民百十二世帯、一軒ずつの事情メモ。

一頁一頁が、日記ではない。日記よりもっと正確で、もっと重い。感情を一切排して、事実と数字だけで綴られた十年間。

三百二十四頁目に、署名があった。カタリーナ様の筆跡。最後の日付。

その下に、小さく。

「クラウスへ。よろしくお願いいたします」

、顎の付け根が痛くなるほど歯を食いしばって、それでも止められなかった。四十五年この領地にいて、初めて泣いた。

先代に拾われた日も泣かなかった。ヘルムート様が亡くなった日も泣かなかった。ルートヴィヒ様の不行跡を知った日も、堤防が崩れた日も、泣かなかった。

この一行で、泣いた。

(よろしくお願いいたします、か)

十年間、一人で全部やっていた人が。「よろしく」と。たった一行で、全てを託した。四十五年分の根を持つ男に。

あの人も、分かっていたのだ。本物と偽物の違いが。

ロゼッタという女から手紙が来た。カタリーナ様が帳簿を改ざんした、と。周囲にそう伝えてほしい、と。

一蹴した。

(十年間一字の誤りもなかった帳簿を、改ざん?)

あの帳簿を見たことがない人間の戯言だ。王家の筆跡鑑定官が全頁を検分し、カタリーナ様の自筆であることを認定している。改ざんの余地など、どこにもない。

返信には事実だけを書いた。短く。冷静に。四十五年の根を張った男は、感情で文を書かない。事実だけを書く。カタリーナ様がそうしたように。

末尾に一文。

「旧辺境伯領の領民たちは、カタリーナ様のことを忘れておりません」

、忘れるはずがない。

この土地の堤防は、あの方が七年かけて築いた。石積みの目地を、毎年冬に詰め直した。交易路を組み替えて、パン屋の仕入れ値を下げた。識字教室を開いて、子供たちに文字を教えた。

壊れたのは、手入れをやめた箇所だけだ。あの方が積んだ石は、まだ残っている。

四十五年の根が知っている。

この土地に、本物の仕事をした人がいたことを。

カタリーナ様が復興顧問として戻ってきた日。

管理事務所の玄関で待っていた。少し痩せた。白髪が増えた。けれど立ち姿は変わらない。四十五年、この場所に立ってきた。根が張っているから、立ち方は変わらない。

「お元気そうで何よりです、カタリーナ様」

「クラウス。お変わりなく」

「変わりましたよ。白髪が倍になりました」

冗談めかして言った。目が笑っていなかったのは、この一年半、崩壊した堤防と離散する領民を一人で支えてきたからだ。応急処置の土嚢を運び、残った領民の食糧を手配し、王家の管理官として書類を書き続けた一年半。

カタリーナ様がいなくなった後の領地を、一人で守った。守れたかどうかは、分からない。堤防は壊れたままだ。交易路は寸断されたままだ。けれど、この場所に立ち続けた。四十五年の根で。

けれどもう一人ではない。

カタリーナ様が戻ってきた。隣にニコラウスという技師がいる。後ろにフリッツという若い家臣がいる。

一人で抱え込まなくていい。

、ようやく。

四十五年の根の上に、新しい芽が出た。

根は抜けない。抜く必要もない。根があるから、新しい芽が出る。

そんな朝だった。