作品タイトル不明
第28話
辺境に戻ってから、一月が経った。
その間、城では結婚式の準備が、着々と進められていた。ヨハンが主軸となり、城下町の職人たちが総出で動いた。ドレス、祭壇の花、祝宴の料理、招待客の宿の手配——全てが、春の暖かさと共に、静かに、しかし確実に、整えられていった。
派手な式にはしない、とアンジェリカは希望していた。
王都でよく見かけるような、何百人もの貴賓を招いた華美な婚礼は、望まなかった。
「領民たちと、共に祝える式を」
彼女は、そう、ディルクハルトに伝えていた。
迎えた、結婚式の朝。
城の東翼、アンジェリカの部屋では、侍女たちとリーゼが、花嫁の仕度に大わらわだった。
真っ白なドレスが、衣装台に広げられていた。絹地に銀の糸で、月桂樹の葉と小さな花が、繊細に刺繍されている。派手ではない。けれど、近づいて見れば見るほど、職人の手仕事の丁寧さが、滲み出る一着だった。
これは、ディルクハルトの亡き母が、生前に着想していたデザインだったという。
ヨハンが、屋根裏の古い箱から、スケッチを見つけ出してくれたのだった。
アンジェリカは、鏡の前で、じっと立っていた。
侍女たちが、丁寧にドレスを纏わせる。胴をきゅっと絞り、肩の縫合を調整し、裾の長さを整える。
髪は、蜂蜜色の長い髪を、緩く結い上げ、生花の冠を乗せた。山野から摘んできた、白い野の小花。領民の娘たちが、朝早くから集めて、編んでくれたものだった。
耳には、小さな真珠。首には、何もつけない。
左手の薬指には、変わらず、銀細工の婚約指輪。
——そして、今日、その横に、もう一つの輪が、加わる予定だった。
「——奥様」
リーゼが、震える声で呼びかけた。
「本当に、綺麗です」
「まあ、リーゼったら」
「本当に……本当に、本当に、綺麗です」
彼女は、袖で目を拭いていた。一年前、薬草園で初めて会ったあの痩せた少女が、今や、すっかり背が伸びて、立派な娘に育っていた。
アンジェリカは、鏡越しに、リーゼに微笑みかけた。
「あなた、今日、わたくしの隣を歩いてくださる?」
「——え?」
「ドレスの裾を、支えてくださる子が必要なの。あなた以外、わたくし、頼みたい人がいませんの」
リーゼは、息を呑んだ。
花嫁の付添い。それは、花嫁にとって最も大切な役目の一つだった。本来ならば、高位貴族の令嬢が担うもの。河岸の集落出身の下層の娘が、辺境伯夫人の付添いを務めるなど、前代未聞だった。
リーゼの瞳から、大粒の涙が溢れた。
「ありが、とう、ございます……」
「泣かないで、お化粧が崩れてしまうわ」
「は、はい……っ」
アンジェリカは、そっと、彼女の頬を、指先で拭った。
扉を、そっと叩く音がした。
「お入りくださいませ」
入ってきたのは、旅装のままの、ローゼンベルク侯爵だった。
彼は、娘の姿を見て、立ち尽くした。
「……お父様」
「アンジェリカ」
侯爵の声は、少し、震えていた。
「——きれいじゃ」
それ以上、言葉にならなかった。
辺境への旅路は、彼の老いた身には、決して楽ではなかったはずだった。
それでも、彼は、自分の足で、娘の結婚式に間に合うよう、北へと上がってきた。
アンジェリカは、父に歩み寄り、その腕の中に、身を預けた。
「お父様、ありがとうございます」
「……ああ」
「お父様にここまで来ていただけただけで、わたくし、何より嬉しゅうございますわ」
侯爵は、娘の頭を、優しく、撫でた。
その仕草は、彼女が幼い頃、庭で薬草を摘んで見せた時と、何ひとつ、変わっていなかった。
「教会まで、父の腕で、参りたいと思っておったのだが」
侯爵が、穏やかに言った。
「よろしいかな」
「もちろんですわ、お父様」
彼は、頷いて、静かに腕を差し出した。
アンジェリカは、父の腕に、自分の手を添えた。
城の門を出ると、そこには、迎えの馬車が、すでに待機していた。
白い馬が二頭、銀の馬具を纏い、馬車には春の花が飾られている。御者は、グレイウルフ家の老練な職人で、今日の彼は、最上の正装を纏っていた。
街道の両側には、城下町の人々が、ずらりと立ち並んでいた。誰もが、晴れ着を纏い、花を手にしていた。
馬車が出発すると、沿道から歓声が沸き起こった。
「奥様、おめでとうございます!」
「姫様、お美しい!」
「お幸せに!」
声が、春風の中に、溶けていった。
アンジェリカは、窓から微笑みかけ、小さく手を振った。
馬車の中で、父が、静かに呟いた。
「——これほど愛されておる娘を、他に、わしは知らん」
「お父様……」
「お前は、正しい道を選んだな」
侯爵の目は、滲んでいた。だが、その声は、誇りに満ちていた。
アンジェリカは、無言で、父の手をぎゅっと握った。
教会は、城下町の少し外れ、丘の上に建つ、石造りの小さな礼拝堂だった。
大聖堂のような壮麗さはない。けれど、古い窓の色ガラスが美しく、春の日差しを柔らかく濾して、内部を淡い光で満たしていた。
祭壇には、領民の娘たちが摘んできた、山の花々が飾られていた。野バラ、白いクレマチス、淡い紫のライラック——自然の花の香りが、堂内に満ちていた。
教会の扉の前で、馬車が停まった。
扉が、ゆっくりと、開いた。
堂内には、城下の領民たちが、びっしりと集まっていた。立錐の余地もないほどだった。皆、息を呑むように、花嫁の到着を待っていた。
祭壇の前に、ディルクハルトが、立っていた。
黒と銀の、辺境伯家の正装。背筋が真っ直ぐに伸び、今日の彼は、いつもより、さらに凛としていた。
その灰青色の瞳が、扉の向こうのアンジェリカを捉えた。
瞬間——彼は、息を、止めた。
アンジェリカは、父の腕に、手を添えたまま、ゆっくりと、扉をくぐった。
後ろには、リーゼが、白い裾を慎重に支えて歩いていた。
堂内の人々が、一斉に立ち上がった。
色ガラスを透した光が、花嫁を淡い虹色に包んだ。白いドレス、生花の冠、蜂蜜色の髪、頬の淡い染め。
ディルクハルトは、祭壇の前で、彼女から目を離せずにいた。
彼女が、一歩一歩、彼に近づいてくる。
やがて、父侯爵が、祭壇の前で、立ち止まった。
そして、娘の手を、そっと、ディルクハルトに渡した。
侯爵は、短く、しかし重く、告げた。
「——娘を、よろしく頼みます」
「命に代えて」
ディルクハルトは、深く頷いて、アンジェリカの手を受け取った。
二人は、祭壇の前で、並んで立った。
静まり返る教会の中で、司祭が、厳かに誓いの言葉を、読み上げ始めた。
アンジェリカは、ディルクハルトの横顔を、そっと、見上げた。
彼は、わずかに、彼女の方を向き、——そして、囁いた。
誰にも聞こえぬ、小さな声だった。
「……綺麗だ」
たった一言だった。
その一言に、万感の想いが、籠っていた。
アンジェリカの瞳から、涙が一筋、静かに、流れ落ちた。