作品タイトル不明
第27話
北への帰り道は、往きよりもずっと穏やかだった。
春が、確実にこの国に訪れていた。街道の両脇には、黄色の山吹や、白い野の花が咲き始め、森の木々には淡い緑の新芽が萌えていた。行き交う農民たちは、畑の準備に忙しく、子どもたちは裸足で小川の脇を駆け回っていた。
アンジェリカは、馬車の窓から、その景色を眺めていた。
あの、修道院を目指して発ったのと同じ街道。
だが、見える景色は、まるで違っていた。
「——季節が変わると、同じ道も違って見えますわね」
彼女は、隣に座るディルクハルトに、微笑みかけた。
「そうだな」
「あの時も、わたくし、胸を高鳴らせて、この道を進んでおりましたの。修道院で、好きな研究に没頭できると思って」
「そして、魔獣に襲われた」
「ええ、その通り」
アンジェリカは、くすくすと笑った。
彼の無骨なユーモアにも、最近ではすっかり慣れて、自然に笑えるようになっていた。
旅の中で、二人は、これからのことを、少しずつ話し合った。
結婚式のこと。新しい生活のこと。領地の経営のこと。薬草園の拡張のこと。
そして——子どものこと。
「子ども、ですか」
アンジェリカは、頬を染めた。
「そうだ。将来、何人欲しいかと問うている」
「まあ、ディルクハルト様、そんな話を、こんな明るい馬車の中で——」
「夜にすべきか?」
「もう、聞きませんでしたわ」
彼女は、扇で顔を隠して、俯いた。
ディルクハルトは、低く、笑った。
十日後、ついに、グレイウルフ領の領境に到達した。
山々の間から、あの懐かしい灰色の城塔が、遠くに見えた時——アンジェリカは、思わず、両手で口元を覆った。
「……戻って、きましたわ」
「ああ」
「ちゃんと、戻ってこれましたわ」
ディルクハルトは、優しく、彼女の肩に手を置いた。
「帰ってきた」
馬車が、街道を進むにつれて、城の姿が、少しずつ大きくなっていった。
城下町の入り口で、異変が起きた。
遠くに、大勢の人影が見えた。街道の両脇に、まるで何かを待ち構えるように、人々がずらりと並んでいる。
ディルクハルトは、眉をひそめた。
「……何事だ」
先導の騎士が、急いで戻ってきた。
「閣下、城下町の住民が、総出で、お二人をお迎えに——!」
アンジェリカは、驚いて窓から身を乗り出した。
街道の両脇には、老若男女、数え切れぬほどの人々が、立っていた。手には、春の野の花を持ち、旗を振り、歓呼の声を上げている。
「姫様! お帰りなさい!」
「ローゼンベルク様!」
「北の聖女、お帰りなさい!」
声が、声に重なって、春風の中に響き渡った。
馬車の進む道に、花びらが次々と撒かれていく。
アンジェリカは、窓から身を乗り出して、両手を差し出した。人々が、次々と花束を差し出してくる。彼女の腕の中は、すぐに春の花で埋め尽くされた。
涙が、止まらなかった。
「——ただいま、戻りましたわ!」
彼女は、声を張り上げて応えた。
「皆様、ただいま! わたくし、戻ってまいりましたわ!」
やがて、人混みの中から、一人の小さな男の子が、飛び出してきた。
あの、七歳の男の子だった。
彼は、小さな足で必死に馬車を追いかけてきていた。
ディルクハルトが、短く命じた。
「馬車を止めろ」
馬車が、ゆっくりと停まった。
アンジェリカが扉を開けると、男の子は、息を切らせながら、彼女の前まで駆け寄ってきた。
「ねえちゃ! 帰ってきてくれた!」
彼は、嬉しそうに、彼女の腰に抱きついた。
アンジェリカは、屈んで、彼を強く抱きしめた。
「お約束を、守りましたわね」
「うん! ぼくも、いい子にしてた!」
「まあ、偉いわね」
「ねえちゃ、もう、どこにも行かない?」
アンジェリカは、男の子の頬を、両手で包んだ。
「もう、どこにも行かないわ。——ここが、わたくしのお家ですもの」
城の門前には、リーゼが、他の使用人たちと一緒に、整列して待っていた。
アンジェリカが馬車を降りるなり、リーゼは走り寄ってきて、彼女の手を取って、泣き出した。
「おかえりなさい、アンジェリカ様……!」
「リーゼ、ただいま」
「あ、あのね、私、毎日、温室の手入れ、ちゃんとやっておりました。月光草も、新しい芽が、五つも出ましたの」
「まあ、本当に?」
「はい、ぜひ、見てくださいませ」
リーゼは、まだ涙を流しながら、嬉しそうに報告した。
その傍で、ヨハンが、静かに頭を下げていた。
白髪の老執事の、目の縁が、わずかに赤かった。
「お帰りなさいませ、奥様」
アンジェリカは、目を瞬かせた。
「ヨハン、奥様は、まだ——」
「いえ」
ヨハンは、深く、頷いた。
「正式な婚姻はまだでございましても、我らグレイウルフ家の者にとっては、既に、あなた様は奥様でございます」
アンジェリカは、目に涙を浮かべて、頷いた。
その夜、城の大広間で、質素ながら温かい歓迎の宴が開かれた。
使用人たちも、騎士団も、全員が集まって、二人の帰還を祝った。料理も飲み物も、決して贅沢ではなかったが、心が満ちるような、温かい宴だった。
食卓で、アンジェリカは、ディルクハルトの隣に座っていた。
賑やかな声に囲まれながら、彼女は、そっと呟いた。
「……ここが、わたくしのお家ですわ」
ディルクハルトは、彼女の手を取った。
「そうだ。これからずっと、そうだ」
大広間には、リーゼの明るい笑い声、騎士たちの乾杯の声、そして、ヨハンが密かに拭う涙を誤魔化す、静かな咳払いが、響いていた。
窓の外では、春の北風が、穏やかに吹いていた。
辺境に、ようやく、本当の意味での、春が来ていた。