作品タイトル不明
27
ジェノベーゼを抱きしめてぐっすり眠るアナの頭を一度撫でてから、シリウスはサフィニアを連れて夜の散歩のために庭に出た。
使用人たちが気を遣ったのか、薄暗い庭の小道にはところどころにキャンドルが灯されていて幻想的だ。
ストールを肩からかけたサフィニアは、約束通り夜空に輝く月や瞬く星ではなく、じっとシリウスを見つめている。自分から言っておいてなんだが、ちょっと落ち着かない。
「……無理して私だけを見続けなくてもいいから、楽にしなさい」
「そういうわけではないのですが……」
「夜空を見たらいい」
ようやく視線を外してくれたサフィニアにほっとしつつ、ゆっくりと夜空を見上げるのにちょうどいい、庭に設られたベンチに揃って腰を下ろした。
アナとよく似たキラキラした目で夜空を見上げる彼女は好ましくもあるが、シリウスを見つめていたときより楽しそうな姿に複雑な心境でもある。
なのでやや皮肉混じりな物言いになるのは仕方のないことだった。
「嬉しそうだな」
「はい! こんな風に誰かと満月の夜空を見上げるのは久しぶりなので、嬉しくて」
(久しぶり……?)
「……以前は誰と?」
「地元の神父様です。……手紙には元気にしているとあるのですが、もうだいぶお年なので心配です」
不毛な嫉妬をしたことを恥じつつ、気づかれなかったことに安堵し相槌を打った。
そばにいてなにかあったときに駆けつけられる距離にいるのならば別だが、サフィニアの地元は僻地なのだ。それは心配だろう。まめに手紙のやり取りをしているのは、そういう事情もあるのかもしれない。
普通、歳を重ねればあちこちガタがきてもおかしくはない。それなのに、なぜうちの執事長は自分よりも体力があるのか。絶対におかしい。
「一度顔を見せに帰るか?」
サフィニアが何日か家を空けても特に問題はないのだ。彼女が帰省している間、シリウスが色々と落ち着かなくなるだけで。
「わたしひとりで帰ったら出戻ったと思われて、余計に心労をかけてしまうと思います」
「そうか……」
となるとシリウスも一緒に行った方がいいのだろうが、さすがにサフィニアの地元に行って帰って来るだけの日数分の休暇となると許可が下りるはずもなく、申請すること自体気が引けて難しい。
それにシリウスが監視していないと王太子が怠け、執務室の士気が下がり、役人たちが図に乗り、大臣たちが無駄な予算の申請を押し通すという、負の連鎖が生じかねないのだ。シリウスの代わりができる側近が増えてくれることを心から願っている。
本音では彼女の慕う神父様に挨拶をしておきたいところなのだが、いつになることか。
「寂しくはないか?」
サフィニアがネックレスを指でいじりながら、天を見上げた。
「神父様も今頃、この夜空に祈りを捧げていると思います。同じ空の下にいるのですから、それほど寂しくはありません。それに神父様を気にかけてくださる方は多いですから、今もみんなで集まって祈りを捧げながら楽しく夜を過ごしていると思います」
「慕われているのだな」
「ええ。あの田舎の教会が早々に潰れていないのは、神のご加護もありますが、大半は神父様の人徳のおかげだと思っています」
「いつか、一緒に挨拶に行こう」
ベンチに置かれていた手にそっと手を重ねると、彼女は驚いたようにこちらを向いて、それから嬉しそうにうなずいた。
「ありがとうございます、旦那様。わたしはあなたにもらってばかりで……なにか返せるものがあるでしょうか?」
「死ぬときまでずっとそばにいてくれれば、それでいい」
できるのなら、年老いて彼女に看取られて死にたい。にわか信者のシリウスでも、彼女の腕の中で死んだら天国へ行けそうな気がする。
「……わたしの方が先に逝くかもしれませんよ」
消え入りそうな声と憂いを帯びたその横顔に、妻が神に奪われてしまいそうな不安と恐怖が押し寄せてきて、どこへも行かせないようにきつく掻き抱いた。
「どこか悪いのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……。たぶん旦那様よりは健康です」
散歩の本来の目的を思い出して少し言葉に詰まる。急速に冷静さが戻ってきた。
「……私だって、長生きするつもりだ」
「ぜひ長生きしてください。アナのためにも、お願いします」
「きみのために、だ。アナはユーリがなんとかするだろうが、私が死んだらきみが未亡人になってしまうだろう」
サフィニアはまだ若いので、周りが再婚相手を探さないとも限らない。もし別の男と結婚したらと思うとぞっとする。
胸に寄せていたサフィニアの頭頂に、自分のものだと印をつけるように軽く唇を落とした。自分の妻は彼女だけでいいし、彼女の夫は永遠に自分がいい。自分は意外と独占欲が強いのだということを、この歳になってはじめて知った。
「わたしの旦那様はあなただけです。……シリウス様」
はじめて彼女に名前で呼ばれ、不自然なまでに心臓が跳ねた。恥じらうようなその響きが新鮮で、これはなかなかに破壊力がある。
世の妻たちが夫のことを旦那様と呼ぶのは、名前を呼ぶことで夫に心臓発作を起こさせないためなのかもしれない。
だが、悪くない。
夫婦というより、恋人同士のようで面映くもある。
「ふたりきりのときは、また名前で呼んでくれないか?」
「はい……シリウス様」
男女の機微に疎いシリウスでも、今がこれまでにないくらいにいい雰囲気なのはわかる。サフィニアの顎を指で掬い、視線を絡ませると、言葉もなく唇を重ねた。
神に見られていることに恥じらう彼女とは反対に、シリウスは見せつけるようもう一度口づけを交わすと、名残惜しく思いながら離れた。
伏せていた目をそっと上げる彼女の頰は色づいていて、キスの余韻に浸っているように見えたが、それでも、やはりなにか思い悩んでいることがあるのだろう。その手がネックレスを握り締めているのが目に入り、シリウスは迷いながらも問いかけた。
「……なにか、気がかりなことでもあるのか?」
サフィニアがはっとした顔でこちらを見たので、すかさず無理強いはしないと言葉を重ねた。
「言いたくないのなら、言わなくても構わないが……」
打ち明けてくれたらそれはそれで嬉しいが、シリウスとしては、ただ心配していることを知っておいてほしかった。
シリウスに解決できる問題ならば手を貸すし、相談に乗ることも可能だ。
それに彼女を悩ませる原因が自分にあるのなら、正直に言ってくれた方が改善できるので助かりもする。
気長に待っていると、サフィニアは意を決したようにその重たい口をそっと開いた。
「姉のことなのですが……」
自分のことでなかったことにひそかに胸を撫で下ろし、それから真面目に傾聴姿勢を取った。
シリウスとしても、彼女の姉についてはいつかきちんと話し合わなければならないと思っていたのだ。
だが彼女が口にしたのは、シリウスが予想していたものとは少し違う内容だった。
「姉の、その……死因、についてなのです」
軽く瞠目したが、それでも彼女の話を遮ることだけはしなかった。
「姉は、病死しました。産後の肥立も悪くなく、これまでに大きな病に罹ったこともないのに、本当に、突然……病死したのです」
こんなことを思うのは不謹慎なのだろうが、出産が直接の原因でなかったことはよかったと思う。いつか事実を知ったアナが、これ以上傷つかずに済むのならそれに越したことはない。
しかしそれならば、健康だったはずのサフィニアの姉はなぜ病死などしたのだろうか。
「流行病にでも罹ったのか?」
地方だとどうしても対応が遅れて、毎年流行病で亡くなる人が多数出てくる。年配者や子供が多いが、出産で免疫が弱まっていたところに罹患した可能性はあった。
「流行病……そうですね、感染する類の肺の病と、診断されました。姉は突然、血を吐いて亡くなったそうです。本来ならば周囲に同じように罹患した人がいるはずなのですが、そのようなこともなく、聞いた話では倒れる直前は咳き込んでいたらしいですが、前日までは風邪の症状すらもなかったと。大きな症状が出ずに急死することがないとは言い切れませんが、あまりに急過ぎて……不自然なのです」
ざわりと背筋に不快ななにかが通り抜けた気がした。
サフィニアが真剣な面持ちでこちらを見上げてくる。その金色の瞳に、あるひとつの答えを見つけ出していた。
「殺されたと、そう思っているのか?」
「……そう思っているのは、わたしだけです。いえ、神父様も言わないだけで、もしかするとそう思っていたのかもしれません。感染るといけないとすぐに火葬されてしまいましたので、今では調べ直すこともできません」
この国は基本的に土葬の文化が根づいている。よほどのことがない限り、死後も肉体を損なうようなことはせず、土に還るのを待つのが主流だ。
だが感染するリスクがある場合はそれに限らない。感染症を広げてしまわないように早急に火葬する。サフィニアの姉もそのパターンだったのだろう。
もし犯人がいると仮定して、意図的に感染症と見せかけて火葬に持ち込むことで証拠隠滅までもを図ったのだとするなら、相手は相当に手慣れている。
「王太子妃様にそのような反応を起こす毒があると聞いて、確信しました。姉は殺されたのだと思います」
サフィニアはこちらをまっすぐに見つめて、そう告げた。
王太子の側近は、暗殺を警戒してあらゆる毒の知識とその対処法が頭に入っている。万一のときのためだ。確かにシリウスもその毒を知っている。
「これまで黙っていて、申し訳ありませんでした。確信が持てなかったのです。今でも確証があるわけでもありませんし……」
「いや、言ってもらってよかった。不確かなことを口にしにくいのは理解できるが、できれば確証がなくとも気になったことは私には言ってほしい。もし私に言うのが難しいことなら、執事長にでも相談するといい。家族に関わることなら、なおさら」
シリウスとしても衝撃が大きく、内心冷静ではいられなかった。
アナの実母が殺されていた。
ならば答えは自ずと導き出される。
邪魔になったから殺されたのだ。貴族が、囲っていた愛人や、口封じのために配下を始末するときによくやる手口だった。
(アナの実母は……)
実父か、その周囲に殺された可能性が大きい。
これ以上残酷な話はないではないか。
もし将来アナがその秘密を知ってしまったらと考えると胸が痛い。
そこで気づく。アナの存在をもし実父が知っていたら……。
こうしてアナを娘として迎える未来はなかったのかもしれない、と。
今はバロウ家の養女となっている以上、相手が誰であれ軽々しく手を出しては来ないだろうし、そもそもアナが見逃されている時点でその存在自体に気づいていない可能性が高い。
それに息子ならともかく、娘は政治的に利用価値があるので普通ならば引き取りたがるものだ。アナのように容姿が整っていればなおのこと。
「アナは大丈夫でしょうか……? もしアナまで姉のようになってしまったら……」
「現時点ではなんとも言えないが、これまで放置されていたのだからその可能性は低いだろう、と思う。きみはアナの父親がやったことだと思って不安になっているのだろうが……そうでなかった場合の方が、厄介だ」
「え?」
サフィニアは目を丸くしている。シリウスの懸念にまったく心当たりがないという顔だ。
「仕方のないことだが、きみは貴族の常識にやはり疎いところがあるな。言い方に配慮ができないが、たとえばの話、アナの実父が妻帯者で、不倫の末にきみの姉を疎ましく思い病気に見せかけて始末したとする。その段階でアナの存在をその男が知っていたら、どうすると思う?」
「え、それは……アナもきっと同じように」
「いいや、違う。娘はどうにかして引き取るはずだ。もちろん親子の情からではない。政略結婚の駒をみすみす逃しはしないということだ。もし入婿だった場合は妻ににらまれるだろうし、アナのお気に入りの絵本の主人公のように虐め抜かれるだろうが」
サフィニアはよくわからないという顔をしている。
貴族の娘にどれだけ価値があるかを、貴族の娘なのに捨てられた彼女にはきっと一生理解できないだろうことも承知している。
それでもどうにか受け入れてもらわなければ話が進まない。
「きみの地元の風習は、それだけ異常だったいうことだ。仮にも貴族が、血統の確かな娘を教会に預けるなど常軌を逸している。そのあたりの考え方の違いが根底にあるからだろう、一番面倒な可能性が見えていない」
「申し訳ありません……」
「いや、責めているわけではない。きみは、アナの実父がきみの姉と本気で愛し合っていた場合のことを考えたことはあるか? 正直、この可能性が一番、私たちとアナに直接的に関係してくるだろうと思っている」
「どういうことですか……? 愛し合っていたのなら、なぜ」
「それが身分違いの恋ならば、親や親族のような周囲にいる第三者がふたりの仲を引き裂こうと画策するだろうことは理解できるな? とはいえ、恋に燃え上がった若い男女になにを言ったところで聞く耳を持つはずがない。だが相手が亡くなったならどうだ? 心はともかく、諦める選択をするのも時間の問題だろう」
「旦那様は、アナの実父が犯人ではないと思っているのですか?」
「その可能性もある、というだけの話だ。重要なのは犯人探しではなく、アナの実父が真実を知ったときの動向だ。もし愛した人との間に自分の子がいたと知ったら、きみならどうする?」
「そんなの絶対に引き取り……あっ」
「そうだ。もしアナの実父が犯人ならば、アナは我が家の養女になっている時点ですでに無関係という体裁が整っている以上、今さら余計な手出しはして来ないはずだ。下手に手出しすれば逆に痛い腹を探られかねない。しかし反対にアナの実父が周囲に翻弄されたただの被害者ならば、事実を知ったとき、アナを引き取るために裁判を起こして来るかもしれないし、強引な手段に出て来るかもしれない」
サフィニアがごくりと息を呑んだ。
それに勝てるかどうかは、正直、相手次第だ。
アナのことを考えると、本当の父親と引き離すことが正しいことなのかわからなくなる。
だが、これだけは言える。
「実父のそばには、おそらくきみの姉を殺めた人間がいるだろう。その人間がアナのことをどう思うか……わかるな?」
奪われた時点でアナの輝かしい未来は失われると思っていた方がいい。
サフィニアが蒼白で震えはじめたので、その肩を抱き寄せて宥める。
「大丈夫だ。まだアナのことを知られたわけではないのだろう。私がなにか考えて手を打つから、そんな不安そうな顔をするな」
シリウスは相変わらず煌めく夜空を八つ当たりぎみににらみながら、冷静にこれからの算段を練りはじめた。