作品タイトル不明
23
「サフィニア……?」
第二王子が声を震わせながら、もう一度しっかりとサフィニアの名前を呼んだ。
しかしサフィニアは答えない。エスターのときのような親しげな雰囲気は一切なく、困惑して、返答に躊躇っているように感じられた。
向こうはサフィニアの名を呼んだ以上知り合いではあることは間違いないのだが、サフィニアの反応は初対面の相手に向けるものによく似ている。
どこかちぐはぐとした雰囲気の中、なにか言い募ろうとしかけた彼が、そこでようやくサフィニアの隣にいるシリウスに気づいたのか、ぱちりと瞬いた。そういう顔をするとまだ二十歳の青年っぽさが垣間見える。
「シリウス・バロウ? なぜ……」
なぜ牧場に、ではなく、なぜサフィニアに寄り添っているのか。そう聞かれた気がしたが、考え過ぎだろうか。
それとも、なぜ王太子の横であくせく働いていないのかという嫌味だろうか。
その探るような不躾な視線を少々不快に感じつつも、貴族としての矜持で決して表に出さないように努め、冷静に受け答えをした。
「お久しぶりです、イザーク第二王子殿下。私はご覧の通り、妻子とともに牧場見学をしておりました」
「妻子? ……ああ、そういえば、結婚したと」
「はい。王太子殿下より、よきご縁をいただきました」
サフィニアの腰に腕を回して引き寄せると、イザークの亜麻色の瞳が鋭くすっと細められた。
そういえば彼とはあまり日の光の下で顔を合わせたことがなかったから知らなかったが、光の加減でサフィニアと似た瞳の色になることに今気がついた。もちろんサフィニアの方が月のようで綺麗だが。
緊張なのかサフィニアの手がかすかに震えている。大丈夫だというように握ってやると、少しだが治った気がした。
シリウスがそばにいることでいくらか気持ちが落ち着いたのか、彼女は一度深呼吸をしてから、しっかりと顔を上げると、いつも通りの微笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります、王子殿下。わたしはシリウス・バロウの妻の……タピオカと申します」
思わずシリウスは彼女を二度見したが、相手はそれ以上に驚いた様子で、頭からつま先まで一度流し見てから、信じられないというように聞き返した。
「タ、タピオカ?」
気持ちはわかる。シリウスですら耳を疑った。内心疑問符で埋め尽くされている。疑問符とタピオカの奔流に飲まれて気絶しそうだ。
妻がとうとう、平然とタピオカを名乗り出した。それほど気に入ったのか、その名前を。
(いや、なにか意図してのことだとは思うが……)
だとしても、タピオカは、ない。
「ええ。わたしの名前は、タピオカ・バロウです」
イザークからシリウスへと問いかける視線が注がれたが、訊きたいのはむしろこちらの方だ。気づかないふりをして沈黙を貫いた。
今さらタピオカでないと言ったところで冗談で済ませられる自信がない。
自分の妻の名前はタピオカなのだ。
心の安寧のために、シリウスはそう思い込むことにした。
そんなシリウスの異変を敏感に察知したらしい執事長が、アナを抱き上げてこちらの様子を遠巻きに窺っているのが視界の端に映り、そちらへと目をやった。こちらに来るべきか、それとも去るべきか、判断に迷っているようだ。
つられるようにシリウスの視線を追ったイザークが、アナの姿を目にして、はっとしたようにサフィニアと見比べた。似ているのですぐに娘だと理解したのだろう。
見つかってしまったのなら仕方ない。執事長にこちらへ来るように言って、その腕からアナを引き受けた。
「私の娘です」
「娘……」
アナはこの場の妙な空気を肌で感じたのか、ぐずるようにシリウスの首に腕を回してしがみついてきた。あまり人見知りする子ではないのでめずらしい反応だったが、散々歩き回ってそろそろ疲れて眠くなってきた頃合いなのかもしれない。
「まだ幼いので、あいさつはご容赦ください」
「……歳は?」
「二歳です」
「二歳……」
彼は難しい顔でなにか考えるような仕草をしている。
「きみは……サフィニア、ではない……?」
「はい。それに、あなた様とは初対面かと……。世の中には似た人が三人はいると言いますし、やはり人違いではないでしょうか?」
「ママ、たぴおかー」
アナのダメ押しに納得したわけではないだろうが、これ以上話しても無駄だと思ったのか、王族らしい潔さで話を切り上げた。
形ばかりの挨拶を交わして、それでも、最後までサフィニアへと意味ありげな視線を送りながら、彼は愛馬とともに去っていった。
彼らの後ろ姿が見えなくなってから詰めていた息を大きく吐き出したサフィニアに、シリウスはすかさず説明を求めた。
妻の名がタピオカになってしまったのだ。説明がないのは受け入れられない。
「どういうことだ? 知り合いではないのか?」
「誓って初対面です。……わたしは」
「わたしは、って……ああ、そういうことか」
サフィニアではないサフィニア、つまり彼女の姉だ。アナの実母の。
どのような経緯があったかは不明だが、顔と名前が一致するくらいの関係だったのだろう。
「よかったのか? 姉のふりをしなくて」
「さすがに生前の姉を知っていたとなると、騙し切る自信がありません。両親とはわけが違います」
「……普通、逆ではないか?」
「残念ながらあの人たちは普通ではなかったので」
人のことは言えないが、ここも親子の溝が深い。
微笑むサフィニアの闇に触れながらそんなことを思っていると、シリウスの首に顔をうずめていたアナがなにやらごねはじめた。
「やー!」
「なにが嫌なんだ」
「ちがう」
「アナ。なにが違う?」
訊いてもまともな答えが返って来ないのでまったくわからない。
「どうした? 疲れたのなら休憩にするか?」
アナは周りをきょろきょろとしてから、シリウスの首に再度しがみついてきた。
「ぐすたふがー」
「出たな、グスタフ。どこだ」
鋭く周囲をぐるりと見渡すが、グスタフらしき生物はもちろんいない。イマジナリーフレンドとは理解していても、その生態が気になって仕方なかった。
「グスタフはどんな姿だ。人間の形をしているのか?」
「ぐすたふ、とぶのー。おはね、ぱたぱたー」
羽があり空を飛ぶということは、鳥か虫の姿をしているのだろうか。
グスタフに関しての新情報に、サフィニアが顎に指を当ててなにやら思案顔になった。彼女は彼女なりに、グスタフの姿を想像しているのかもしれない。
鳥か虫……できれば鳥の方がいいが、蝶とかてんとう虫ならば、子供が好きそうな見た目なので断定はできない。
グスタフがなんであれ、アナと話せる時点で普通の生き物でないことは確かだ。鳥や虫と話せるはずがないのだから。
ジェノベーゼがなにか言いたげにこちらを見上げていたが、今はグスタフの真相解明に集中した。
「それで、グスタフがどうした? 喧嘩でもしたのか?」
「パパー」
「? どうした?」
相変わらず答えはなく、ぐいぐい額を押しつけられて、戸惑いながらも頭を撫でて宥める。なにか食べて少し昼寝でもさせたら、気も落ち着くだろう。
昼食がてら、そのまま木陰でしばし休憩を取ることにした。
長めの昼食の後、ようやくポニーのいる厩舎へと足を運ぶことができたが、シリウスもサフィニアも望まぬ相手と再び邂逅してしまうことを恐れて言葉数が少なくなっていた。
反対にアナはすっかり普段通りに戻っている。ぽくぽく歩くポニーを自信ありげに指差し言った。
「ろばしゃん」
「ポニーだ」
さっきロバを見たときにロバと教えたはずなのに。確かに似ている気もするが。
「ぽにしゃん……? ろばしゃん……ちがう? ぽにしゃん?」
こんがらがるアナだったが、すぐにポニーとロバの区別をつけられるようになった。やはりお姫様よりも動物学者の方が向いている気がする。
なにげなくアナのポシェットへと目を落とすと、ジェノベーゼがポニーに憧憬の眼差しを注いでいた。ジェノベーゼにはぬいぐるみが向いていると思う。
おとなしそうなポニーだったので、シリウスは出来心でアナを乗せてみた。まだうまくバランスが取れないだろうと思い横から体を支えてはいるが、補助がなくても平気そうだ。普段から乗り慣れているように、なかなか様になっている。日々のお馬さんごっこの成果だろうか。
アナははじめて乗ったポニーに興奮しているのか、目をキラキラとさせて、ぷっくりした頬を紅潮させていた。
「あな、おうじしゃま?」
アナがそう訊いてきた。どうやら馬に乗ってる人は男女問わず全員、王子様だと思っているらしい。
「さっき白い馬に乗っていた人が、この国の王子様だ」
「おうじしゃま……?」
「そうだ。この前、城で一緒にサンドウィッチを食べた人も、王子様だ」
「やー……おじしゃん……」
王子様の年齢層が二歳のアナには高過ぎたのか、現実の王子様の実態を知ってしょんぼりしてしまった。
自分よりも年下の王太子がおじさんの括りであることを知り、かつておじさんと言われて傷ついた心が癒えたが、子供の夢を壊すのも忍びないのでとっさに王太子の息子のことが口をついて出ていた。
「アナと一緒の歳の王子様もいる。だからあまり気を落とすな」
「……まぶ?」
「まぶ? なんだそれは」
「王子殿下のことです。アナとは、友達なのです」
そういえばサフィニアは王太子妃と仲がいいのだった。毎回アナ連れで呼び出しを受けているので、王子ともすでに顔合わせを済ませているのだろう。だが王族相手に、友達と公言してしまってもいいのだろうか。
「まぶ、というのは?」
「わたしにはわかりませんが、ふたりは“まぶ”なのだそうです。友達という意味ではないかと王太子妃様がおっしゃっていました」
子供にだけ通じる符丁かなにかだろうか。
知り合いならちょうどいい。
「そのアナの友達も、王子様だ」
一応想像したような顔はしたが、同年代の子供ではアナの琴線には触れなかったようだ。
「おうじしゃま……」
見かねたサフィニアがアナの頭を撫でて慰めながら言った。
「アナの王子様は、ユーリ様でしょう? みんなの王子様じゃなくて、アナだけの王子様よ」
萎れ切っていたアナの顔がみるみる復活した。
「ゆーり! あなの、おうじしゃま!」
元気になったのはいいが、またユーリに会いたいと言い出す前にポニーから下ろして、意識を逸らすためにその手ににんじんを握らせた。
「いつもジェノベーゼにあげているみたいに、ポニーにも餌をあげたらどうだ?」
「ぽにしゃん、ごはん!」
うまく誘導したおかげで、アナは王子様の件はすっかりと忘れて、ご機嫌でポニーへとにんじんを差し出した。
ポニーは新鮮な食事を前に口をむしゃりと蠢かせると、しっかりとした歯でにんじんの先を齧り、ばりぼりと食べはじめる。わりと生々しい食事姿に、アナは目をまんまるにして、あっけに取られた様子で眺めていたのがおかしかった。
しばらく呆然としていたアナは、急にはっとした表情をすると、ジェノベーゼとポニーを交互に見比べはじめる。その顔は次第に不安げに曇っていき、シリウスはどうしたのかと声をかけた。
「もしかして、歯が怖いのか?」
「じぇのべーぜ、は、ない……」
「…………確かに」
ジェノベーゼはぬいぐるみなのだ。普通ぬいぐるみに歯など作らない。
「ごはん……」
ジェノベーゼには歯がないから、ごはんが食べられないと思ったらしい。そもそもぬいぐるみなのでなにも食べたりしないが、どうやらアナの中では一大事らしい。
「ジェノベーゼは……こう、なんというか、うまい具合に栄養素を吸収しているから、大丈夫だ」
適当にごまかすとジェノベーゼから胡乱な目を向けられたが、反論があるなら自分ですればいいのだ。
(そういえば……前に一度、怒っていたときに歯を剥き出しにしていた気もするが……)
シリウスの見間違いかもしれないので、安易なことは言えずに口をつぐんだ。
サフィニアもシリウスのふんわりしたごまかしに便乗する。
「ジェノベーゼは、『お腹空いたよぅ、ぺこぺこだよぅ』なんて言ったことがないでしょう? だから心配しなくても大丈夫」
サフィニアのジェノベーゼに対するイメージはそんな感じなのか。……なんか、間抜けっぽい。
ジェノベーゼも、サフィニアにはほとほと失望したというような目を向けていた。
「それよりも、ポニーさんがお腹ぺこぺこみたい。もっとにんじんをあげましょう?」
サフィニアに誘導され、アナの意識がポニーへと戻った。
「ぽにしゃん、ごはん! もっと!」
二本目のにんじんをあげて、アナは叱咤激励するように言った。
「ぽにしゃん、おうましゃん、なるのー!」
「……待て。ポニーは仔馬ではない。ポニーは、ポニーだ」
ポニーは大きくなったら馬になると思っているらしいが、ポニーはすでに馬だ。これ以上大きくはならない。しかし言ったところで聞く娘ではなかった。
アナはポニーに乗って、餌やりをして、散々触れ合って、それで十分満足したらしい。ジェノベーゼを取り出してポニー相手にいつもの紹介をしているところを見ると、まだまだジェノベーゼが一番のようだ。本物はたまに触れ合うくらいがちょうどいいのだろう。
「やはりジェノベーゼで十分か」
「そうですね」
その結論に一番安堵していたのは、ジェノベーゼかもしれない。
ポニーに餌と間違われて食べられそうになっていたジェノベーゼは、焦りながらも、必死に自分を庇おうとするアナの姿に嬉しそうな表情をしていた。