作品タイトル不明
22
アナは夜更けまで牧場牧場と騒いでいたせいか、移動する馬車の中でサフィニアに膝枕をされて、ぐっすりと眠りこけている。上下するその小さな胸の上にはジェノベーゼがのっていて、こちらも四肢を投げ出しすやすや眠っている。
ぬいぐるみにも睡眠は必要なのか。疑問に思いながら、シリウスは、アナの髪を優しく梳いていたサフィニアへと視線を上げた。
穏やかで慈愛に満ちた顔だが、下を向いているせいか前髪が陰を作りどこか憂い顔のようにも映る。
「寝ていても大丈夫だぞ」
声をかけると、サフィニアは、はっとしたようにこちらへと目線を上げた。
「いえ、わたしはよく寝たので、これ以上は……」
申し訳なさそうにしているのは、なかなか寝つけなかったシリウスとは反対に、自分だけぐっすり眠ってしまった後ろめたさからだろうか。
アナの歌う謎の牧場マーチが頭から離れず、なかなか寝つけなかったのはシリウス個人の問題だ。サフィニアが気にすることではないというのに、普段大雑把なくせにそういうところは繊細だ。
「そういえば、あのやたら耳に残る謎の牧場マーチ……はじめて耳にしたが、アナが作ったのか?」
「わたしも知らないので、たぶんそうだと思います」
「即興で歌を作ったのか……? 天才か? 将来は動物学者かと思っていたが、音楽家もあり得るのか……」
アナの才能を伸ばしてくれる家庭教師など、果たして国内にいるのだろうか。
いっそ留学も視野に入れるべきか。
だがいざというときに簡単に行き来できない場所に行かせるのはどうにも不安だと葛藤していると、サフィニアがくすりと笑った。
「アナの将来の夢は、お姫様だそうですよ」
「さすがに無理だろう」
つい即答で切り捨ててしまったが、あながち無理な話でもないかと思い直す。
王太子のところの息子はまだ幼いので、婚約者が決まっていない。
(そこに割り込めれば……いや、厳しいか)
王太子が息子には恋愛結婚をさせると言っていたので、見初められたらまた別だが、その可能性は低そうだ。現時点では口約束とは言えユーリと婚約しているし、なによりあの甥がアナを手放すとは思えない。ついでにシリウスも手放してもらえそうにない。
「本物のお姫様ではなくて、絵本の中のお姫様ですよ。今は、継母と義妹に虐げられている令嬢が、お姫様のようなドレス姿になって舞踏会に行くお話が特にお気に入りで」
「ああ……あれか」
正確には、舞踏会に行って初恋の元婚約者の王子様と再会して結婚するロマンチックな物語である。
わざとなのだろうか。サフィニアは肝心な部分を完全に無視していた。
王太子のせいでサフィニアの王子様に対する扱いが安定の雑さだ。
「最近アナがやたらと暖炉を気にしていたのはそのせいか」
継母に暖炉の掃除を命じられて灰まみれになる娘の境遇に涙を誘う場面があるが、シリウスはかねてより疑問に思っていたことがある。
いくら先妻の子とはいえ、由緒ある家の令嬢なのだ。政略結婚の駒として使った方が圧倒的に自分の利になるのに、なぜわざわざ替えのきく下働きにするのか。意味がわからない。
シリウスが継母の立場なら、格上の家に嫁がせるために徹底的に娘に教養を仕込む。屋敷中の掃除をさせたところで、いくらの価値になるというのか。時間の無駄だ。どうせなら新しい屋敷を買ってもらえるような相手を狙えるよう、暖炉ではなく自分を磨かせる。
そしてとにかく見初められるように、あらゆる手段と人脈を駆使して、劇的な出会いを演出することだろう。
そんなことを真剣に考えていると、サフィニアがジェノベーゼを指でつつきながら微笑んだ。
「アナはいつか、ジェノベーゼも本物の馬になると思っているみたいです」
寝起きのジェノベーゼがプレッシャーを感じて焦っているので、ぬいぐるみはぬいぐるみのままでいいと思うとさりげなくフォローしておいた。
実際ぬいぐるみであれば、外出時でもポシェットに入れて手軽に持ち歩くことができるのだ。
今朝も、袈裟懸けにしたポシェットの縁から顔だけ突き出したジェノベーゼは満足そうな表情をしていたし、アナも手軽にどこへでもジェノベーゼを連れて行けることを喜んでいた。
ジェノベーゼにぴったりサイズのポシェットを用意した執事長はやはりできる男だ。
まだ完全には許していないが。
窓の外へと目を向ける。王都の街並みが遠ざかり、景色に緑が増えてきた。
もうしばらくしたらアナを起こそうと決めて、シリウスは景色の移り変わりを目で楽しんだ。
「♪ぼ、ぼ、ぼくじょっ、ぼくじょっ、ぼくじょっ」
朝露に濡れた草を踏みしめながら、アナが元気に自作の牧場マーチを歌っている。うさぎの耳がついたもこもこ帽子が左右にひょこひょこと揺れてかわいらしい。
「♪うししゃん」
「ホルスタイン」
「♪おうましゃん」
「ジェノベーゼ」
「♪ひつじしゃん」
「執事長さん」
合いの手を入れることを強要されているサフィニアを気の毒に思いながら、シリウスもお愛想で手拍子だけは打つ。やらないとアナが拗ねるので、やむをえない。
楽しそうに歌っていたアナだが、草を喰む羊の群れに遭遇すると、ぎくりと足を止めた。もこもこした一頭がさらに新鮮な草を求めてこちらへと近づいて来ると、アナは驚いたのか慌ててシリウスの足の後ろへと隠れてしまった。自分よりも大きい動物はやはり怖いらしい。
隠れること自体は構わないのだが、好奇心が抑え切れずに人の足の間から顔を突き出して覗き見ているのはいかがなものか。
「せめて横から覗きなさい」
なぜ足の間なのだ。アナの淑女への道のりは険しそうだ。
「旦那様の足が長いからではないでしょうか?」
サフィニアがいつぞやのように自分の足を見下ろしてから、そっと肩を落とした。
誰でもいいから、彼女の足の長さは普通だと教えてやってほしい。
アナは人の足の間からまじまじと羊を観察してから、しっかり安全とわかった上で背後から出て来ると、シリウスを仰ぎ見てことりと首を傾げた。
「けだましゃん……?」
「羊だ」
さすがに羊が憐れ過ぎる。
「ひつじしゃん、あっち」
アナが指差す方から、先に牧場のオーナーと話をしに行っていた執事長がこちらへと駆けて来るのが見えた。
「あれは執事長だ」
「ひつじしゃん」
本当に頑固な娘だ。何度言い聞かせようとも、そこだけは絶対に譲らないのだ。諦めて嘆息すると、ポシェットから顔を出しているジェノベーゼの目が笑っているのが見えて肩をすくめた。
その間も執事長が軽妙な走りで、こちらへとぐんぐんと近づいて来る。
「執事長。あまり急ぐな、転ぶぞ」
「鍛えているので問題ありません」
朝露に滑らないか心配だったが、執事長には問題ないらしい。鍛えていてどうにかなる問題ではないと思うのだが。
アナが執事長に向かって、にこっと笑うと、執事長の笑みが深まった。緩んだ目元は完全に孫を見るそれだ。
「それで、どうした? なにか問題でも?」
「それが、先客がいるらしく。オーナーには言葉を濁されましたが、護衛を見た感じ、それなりの身分のお方かと」
「そうか……それは、鉢合わせると面倒だな……」
「オーナーはしばらくそちらにかかり切りになりそうなので、敷地内を自由に見る許可だけはいただいてきました」
「ではポニーは後回しにして、そのあたりを見て時間を潰すか。それでいいか?」
サフィニアに問いかけると、彼女より先にアナが元気に「うんー!」と返事をした。そろそろ、「はい」と「いいえ」を教えるべきかと思案しながら、サフィニアにも再度確認を取る。
「サフィニアもそれでいいか? 広いから結構歩くかもしれないが」
「わたしは大丈夫ですが……」
「アナが疲れたら私が抱っこするから、心配しなくていい」
サフィニアはシリウスの顔をしばらくじっと見つめてから、なぜか執事長へと助けを求めるような眼差しを向けた。
「……?」
ふたりはなにやら目で会話し、執事長は心得たとばかりに深々とうなずく。
「万一の場合は私が背負っていくのでご安心を」
待て。誰を背負う気だ。
どうやらふたりとも、シリウスの体力を信用していないらしい。
「私だって子供のひとりやふたり抱えて歩ける。変な気を利かさなくてもいい」
シリウスはむっとしながら、アナと手を繋いで歩き出した。
すぐにサフィニアと執事長が苦笑しながら追いかけてきたが、断固として振り返りはしなかった。
広大な牧場の中をアナが見たい動物順に回るという効率の悪い進み方をしたせいで、羊の群れととうとう五度目の遭遇を果たしたのを機に、シリウスは強がるのをやめた。木陰で腰を下ろして素直にサフィニアに懺悔する。
「すまない。アナの体力を、舐めていた」
もしくは自分の体力を過信していた。
アナははじめて目にする動物たちとの触れ合いに興奮しているのか、まだ駆け回れるほどに元気だったが、シリウスは反対にぐったりとしている。
できればもう一歩も動きたくない。
許されるのなら羊を数えて眠りたい。
「最近のアナは食事中とお昼寝中以外、ほぼ一日中走り回って遊んでいるので、つき合っているとわたしが疲れるほどなのです」
サフィニアは頬に手を当てて困った表情をしている。話を盛っているわけではなさそうで戦慄した。
「それほどか」
少しも疲れた様子を見せていないサフィニアもなかなかなものだが、アナはそれ以上らしい。恐ろしい娘だ。最初は怖がっていた羊にも今では触れるほどになっている。
執事長がしっかりとアナのそばについて見守ってくれているので、シリウスは遠慮なく休ませてもらうことにした。
「けだましゃん、もこもこー」
「もこもこですね。このもこもこが、アナ様の着ているお洋服になるのですよ」
「けだましゃん、おふくやしゃん?」
「そのようなお店があったら、さぞかわいらしいでしょうね」
「けだましゃん、かわいー」
アナたちの会話が聞こえて来たが、とうとう羊は毛玉で定着してしまった。
(仕方ない、羊の称号は執事長に譲ろう)
今後バロウ家では羊のことを毛玉と呼ぶことにする。そんな重大な取り決めを勝手に下したシリウスの横に、サフィニアが腰を下ろした。
「あまり無理はなさらないでくださいね?」
「わかってはいるが、年寄り扱いはされたくない」
なにせサフィニアとは十歳近くも違うのだ。アナにも初対面でおじさんと言われたし、そのあたりのことが地味に気になる年齢なのだ。
「体力に年齢は関係ないかと……」
サフィニアに促されるように執事長とアナの方へと目を向けた。そこには溌剌と羊と戯れる、年齢差約六十のふたりが。
「……言いたいことは、理解した」
つまりシリウスの体力のなさは、年齢のせいではない、と。
「運動不足はよくないですが、無理は禁物です。旦那様はまず、庭を歩くところからはじめた方がいいと思います」
「その段階なのか?」
リハビリだろうか。
「わたしでよければ早朝でも夜中でも、いつでもおつき合いしますので」
見方を変えれば散歩デートだ。そう考えるとなかなか悪くない提案だった。ロマンチックな雰囲気でふたりの仲が深まりそうだ。
「そのときは頼む」
そう言って人心地ついたとき、馬が駆ける軽快な足音がこちらへと近づいて来ていることに気がつき、慌ててアナの姿を探したが、羊の群れの真ん中で執事長と一緒にむしった草を与えていたので轢かれる心配はなさそうかと警戒を緩めた。
のんびりと構えていると、木陰で涼むシリウスとサフィニアの前を、白い美しい馬が颯爽と駆け抜けていった。一瞬だったが赤い目をしていた気がするので、アルビノなのだろうかと思いながらその後ろ姿を眺めていると、少し行った先で、騎乗していた人物が手綱を操り、歩みを緩めてこちらへと引き返して来るのが見えた。
怪訝に思いながら、シリウスは騎乗した人物へと目を凝らした。金色の髪をうなじでひとつにくくった青年だ。遠目でも、細身だが乗馬服が映える引き締まった体躯をしているのが見て取れた。
どことなく見覚えのある姿だ。もしや……、と思ったシリウスが反射的に立ち上がると、サフィニアもつられたようにそれに倣った。
顔の輪郭が見えて来ると、シリウスの中で予想が確信へと変わる。
あれは王太子の異母弟の、第二王子だ。
また面倒な人と会ってしまった。執事長の言っていた先客とは、彼のことだったのだろう。ついていない。
騎乗したままの彼は、シリウスたちの前で馬の歩みを止めた。ここまで来られたら気づかなかったと言って逃げることも叶わない。
適当に挨拶だけして済ませて立ち去ろうと考えていたシリウスだったが、彼の視線が自分ではなく、隣にだけ向けられていることに気づくと、一度言葉を飲み込んだ。
彼はサフィニアだけを目に映したまま、戦慄くようにその唇を震わせる。
「……サフィニア……?」
それはあまりにもかすかな声だったが、サフィニアの耳にもしっかりと届いたのだろう。
彼女は大きく目を見開いて、自分の名を呼んだ男をただじっと見上げていた。