作品タイトル不明
18
シリウスがはやる気持ちを抑えて屋敷へと帰り着くと、サフィニアがいつもの慈愛に満ちた優しい微笑みで出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、旦那様。アナも一緒に待っていたのですが、ちょっと前に眠ってしまっ――」
彼女が言い終わる前に、シリウスはその体をきつく抱きしめていた。
なぜ言わなかったのだと叱りつけたい気持ちをどうにか堪えて、今確認すべきことを静かに尋ねた。
「アナは、きみの姪なのか?」
サフィニアは少し身じろぎして、シリウスの抱擁からちょっとだけ逃れると、なぜか予期していたのとはまるで違う、どこか不思議そうな顔をこちらへと向けてうなずいた。こくり、と。
「はい、そうですが……言ってませんでしたか?」
「……は?」
脳が理解を拒絶して、もう一度言った。は? と。
もっとこう、隠し事が露呈した焦りや、秘密を暴いたことへの怒りや悲しみなどの激しい感情の波がぶつかって来ると思って身構えていたのにだ。
あまりにもいつも通りな様子に、思わず真顔になった。
それではまるで、言うつもりがあったのに、ついうっかり言うのを忘れて、忘れていたことすら忘れていた、みたいな言い草ではないか。
(……え、まさか……本当に?)
こんな大事な話をするのを、忘れていた――?
そんなバカなと思ったが、直後に、サフィニアがわりと大雑把な性格だったことを思い出してしまった。
「私はなにも聞いていない。まったく。これっぽっちも」
「そうなのですか……? みなさん知っているので、てっきり旦那様にも伝わっているものだとばかり」
「ちょっと待て。みなさん? 誰だ」
「え? 執事長さんとか、メイドさんたちとか……このお屋敷にいる人たちはみんな、知っているかと」
「なん、だと……?」
愕然とした。
(……嘘だろう?)
辺りをぐるりと見渡す。目が合った使用人たちが順に、こくりと無言で肯定していく。
最後の最後に、執事長で視線を止める。もはや答えは明白でも、訊かずにはいられなかった。
「知っていたのか?」
「ええ。もちろんです」
「…………なるほど?」
シリウスだけがなにも知らず、ただひとりヤキモキさせられていたというわけか。
これまでの心労は一体……と、放心状態のまま、サフィニアに向き合う。きょとんとしたその顔はかわいいが、今は少し憎らしい。
「詳しい話を聞きたい」
「え……はい。お部屋でもよろしいですか?」
「どこでも構わない。とりあえず、ふたりきりになりたい」
いっそ穴があったら入りたい気分だった。
アナが起きてもすぐに対応できるように、サフィニアの私室でソファに向き合って座った。
気を利かせて軽食を持ってきた執事長は、早々に追い返した。
ここまで来てわからないはずがない。執事長が箝口令を敷いていたことくらい、想像がつく。
仕事ばかりのシリウスが、サフィニアとアナにもう少し関心を向けるようにと、使用人たちを巻き込みなにやら画策していたらしいことはユーリに指摘されて気づいていたが、まさかまだそんな重大な事実を隠していたとは思わないだろう。
アナの実母が亡くなっていると話したときも、はじめて知ったというような痛ましげな顔をしていたのに。まんまと騙された。
親心ゆえのものだとわかってはいる。執事長は執事長で、シリウスのことを思ってしたことなのだと。
なので責めはしないが、しばらくその顔は見たくない。
「それで? とりあえず、どこからどこまでが、きみが話したつもりで伝わっていなかったことなのかを再度確認したい」
「みなさんが知っているのは、アナがわたしの姪、ということくらいですが……どこからどこまでとは、どういう意味でしょうか?」
困惑しながらもわずかに警戒を深めたその様子から、本当にそれ以上のことは話していないのだと窺い知れた。エスターが言っていたように、きっと彼女は自分の過去についてはなにも語っていない。
「今日エスター・クロウ神父に会った」
意外な名前が出て来たからか、サフィニアは虚をつかれたように目をぱちくりとさせた。
「エスターに? すごい偶然ですね。神のお導きでしょうか?」
やはり似たようなことを言っている。顔も性格も全然似ていないのに、根っこにある信心深さはよく似ているのだ。それも教会で育ったのなら当然のことかもしれない。
「……神の導き、か。それなら、きみの過去を知ってしまったのも、神の思し召しなのかもしれないな」
シリウスのそのつぶやきに、サフィニアはさっと顔を青ざめさせた。大きく見開いたその目には、みるみる涙の膜が張っていく。水面に映るゆらめく月のような美しいその瞳に見入ったのは本当に一瞬のことで、自分が妻を泣かせてしまったことに気づくと、シリウスは途端に慌てふためいた。
「勝手に調べて悪かった! この通り謝るから、泣くな……」
サフィニアの隣へと座り直してハンカチを差し出したが、なかなか受け取らないので痺れを切らしたところで、彼女は言った。うつむきながらも、すべてを拒絶するかのような固い声で、はっきりと。
「明日、アナを連れて出て行きます」
「……は?」
妻の過去を暴いたせいで、離婚の危機に直面していることに気づくと、今度はシリウスが蒼白となる番だった。
「で、出て行く……? なぜ……」
「わたしがいると、家に不幸が……」
(それか!)
てっきり人の過去を土足で踏み躙るように暴いたことで、取り返しのつかないほどに嫌われたのかと思ったが、ふたごは忌み子とかいう例の風習のせいだとわかり深く安堵した。
いや、ほっとしている場合ではない。そんな根拠のない迷信のせいで妻子に逃げられたとなったら、それこそ不幸のどん底だと慌てて彼女を引き留めた。
「きみとアナがいないことの方が不幸だ。頼むから、出て行かないでほしい」
「ですがわたしは……」
「ふたご、だろう?」
サフィニアは静かにこくりとうなずいた。
「旦那様がどこまでご存知かわかりませんが、本来ならば、わたしは家に不幸を呼ぶ忌み子として、生まれてすぐに処分される運命でした。だから、根っからの貴族の娘ではないのです。今まで黙っていて、申し訳ありません……」
「謝るな。きみが謝ることなど、ひとつもないだろう。ふたごがいけないなど、ナスラン聖教では――」
「ええ、大丈夫です。それはわかってはいるのです。ナスラ様は、どんな形であれ、この世に生を受けた子供は平等に尊い、と。その言葉に、幼い頃のわたしがどれほど救われたか」
サフィニアはネックレスをきつく握りしめる。その手が小刻みに震える様は、悲しみを堪えているというよりも、燻った怒りをどうにかして押し込めようと耐えているかのように見えた。
シリウスはしばし逡巡し、彼女の髪へと手を伸ばした。頰にはらりとかかる髪を耳へとかけてやり、しっかりと聞こえるように唇を寄せて囁いた。
「こんな偏屈な人間の元に嫁いでくれる女性など、ほかにいない。きみはこの家に必要な人間だ。アナにとっても、わたしにとってもだ」
サフィニアは泣き笑いの表情で微笑む。その頰を滑る熱い滴を、シリウスは労るように指で拭った。
「……神父様が、おっしゃっていました。物事には必ず道理があり、わたしがふたごだったことにも、きっとなにか意味があるのだと。それをわたしはなかなか信じられずにいました。だけど、今は、アナのためだったのだと思っています」
「……私はそこに入らないのか」
拗ねた響きを感じ取ったのか、サフィニアが困ったように微笑んだ。
「旦那様がそう望んでくれるのなら」
「不安なら毎日言おう。私の妻はきみだけだ。きみがいてくれるだけで……嬉しい」
そう、嬉しいのだ。
人を避けてばかりいたが、警戒せずに誰かと触れ合うことを、心の底では望んでいた。
「わたしはずっと、そう言ってほしかったのかもしれません……」
シリウスはサフィニアの肩をそっと引き寄せた。一本の太い三つ編みに結った髪の先にはお揃いの髪紐が揺れている。
自分の色を身につけることを許している時点で、シリウスの気持ちなど明白だ。
「それならもっと言おう。……好きだから、そばにいてほしい」
「え……?」
ぽかんと口を半開きにしてこちらを見上げるサフィニアはかわいいが、やはりこういうことを言うのは慣れないし恥ずかしいものだと、シリウスはおそらく赤くなっているだろう顔を横に背けた。
「きみは私のことなど好きではないかもしれないが……」
「えっ? そんな、わたしも旦那様のことが、す、好きです、が……結婚の契約で旦那様を好きになってはいけないと聞いていたので……」
シリウスは片眉を上げた。それは王太子に半ば嫌がらせのために突きつけた無理難題であり、結婚にあたっての契約などではない。
「正確には、私の 容姿(・・) に惚れない女、だ。きみは私の容姿自体は、そんなに好きではないだろう。絶対に、ナスラ神のような肉体美を持つ、男らしい軍神が好みのはずだ」
サフィニアが一瞬目を泳がせたのを、もちろんシリウスは見逃しはしなかった。