軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

11

アナがしっかりと反省し終えたところで、シリウスとついでに同僚たちへと差し入れを持って来たと言うサフィニアの好意にあまえて、執務室は一時的にピクニックの様相となった。

「がぶがぶ」

アナはいつものように自分の食事は後回しで、ジェノベーゼににんじんを食べさせている。しかもいつの間にかジェノベーゼ専用のにんじんのぬいぐるみが作られていた。

手作り感に溢れているので、サフィニアが作ったのかもしれない。

執事長が無言で懐からすっと取り出したときはなにごとかと焦ったが、危険物などではなくにんじんのぬいぐるみだった。近衛周辺で一瞬ピリッとした空気が張り詰めたが、今はすっかりと霧散している。

「……おまえの娘、ちょっと変だな」

「殿下にだけは言われたくないと思います」

「どういう意味だ? あれと一緒にされてたまるか。まず、自分の名前くらい言えるように教育しろよ」

王太子に呆れられて、シリウスはそんな馬鹿なとすぐさまアナに問いかけた。

「アナ。お父様は言えなくても、自分の名前くらい言えるだろう? ほら、言ってみなさい」

「あな」

ほら言えるではないかと思っていると、横からサフィニアがアナにそっと囁いた。

「ちゃんとしたお名前は? この前教えたでしょう?」

どうやらアナというのは愛称らしい。まだ小さいのだから、愛称だけでも言えたら十分だろうと思っているのはシリウスだけらしく、サフィニアはきょとんとするアナに、どうにか思い出させようと必死だ。

その口パクを読み、今さらではあるがアナの正式名称はアナスタシアであることが判明した。

さすがに文字数の壁が高いのではないかとシリウスが思っていると、案の定、アナは頓珍漢なことを口にした。

「あな……だったかしら?」

誰かが噴き出した。気持ちわからなくはない。それではアナかどうかもあやふやになってしまっている。

サフィニアが必死に一文字ずつ口を動かす。見ている分には和む光景だ。

「ア、ナ、ス、タ、シ、ア」

「あ、な、しゅ、たっ、し、あ」

おおっ、とどよめきが上がる。どうした側近たち。

「あなしゅ、たった……かしら? あなだったかしら?」

あぁー……、と落胆が響く。だからどうした側近たち。

「まだ舌がうまく回らないから難しいのではないか? お父様ですら言えないのに」

しかしサフィニアは諦めなかった。アナに本名を言わせるために奮起している。

「自分の名前が言えないと、今日みたいに迷子になったときに困ります」

「……確かに」

今後も迷子と縁のありそうな娘だ。

ジェノベーゼの食事を終えて満足そうにしているアナを横目に、シリウスは打開策を閃いた。

「それならば、家名を使うといい。アナスタシアが難しいのなら、アナ・バロウと名乗ればどこの誰か一目瞭然だろう」

「ばろー?」

「そうだ。アナ・バロウ」

「あな、ばろー」

「これなら問題ないだろう?」

むしろ家名を覚えさせておいた方が、名前よりもどこの誰なのか伝わりやすいだろう。

「よろしいのですか……?」

養子なのに家名を名乗らせていいのかと気が引けている様子のサフィニアに、シリウスは構わないと鷹揚にうなずいた。

「すでにアナはバロウ家の娘だ。将来的にはうちから嫁ぐのだから、今から家名を名乗らせて自覚させておくことも必要だろう」

王太子が毒味を終えたサンドウィッチ片手に話に割り込んで来た。アナの頭をぐりぐり雑に撫でるので、シリウスがその手を払い除けた。そんな風に乱暴に撫でて、頭が悪くなったらどうしてくれるのだ。

「嫁ぐのなんて、まだだいぶ先の話だろう」

「いつどこで誰に見初められるかわかりませんので」

「見初められる……か? これが?」

首を傾げる王太子をよそに、アナは気ままに、黙々と給仕に徹していた執事長に自分のコップを掲げていた。

「ひつじしゃん、じゅーす」

執事長は心得たとばかりにバスケットの中からオレンジを掴み取ると、涼しい顔のまま、ぐっ! と力を入れて捻り潰した。

「「!?」」

周りが驚愕する中、みるみる果汁がコップへと溜まっていくのを、アナがきゃっきゃと大喜びしながら見ている。

シリウスはその光景を目を細めて眺めながら、懐かしさにしみじみとしていた。

「執事長の生搾りを見るのは久しぶりだな」

子供の頃、風邪を引いたときによく作ってくれていた記憶がある。柑橘を絞らせたら執事長の右に出る者はいないのではないだろうか。

「いつもありがとうございます、執事長さん。アナ、ありがとうは?」

サフィニアに促されたアナは、執事長にきちんと、ありがとうー、と言ってコップに口をつけた。そしてひと口飲んで、満面の笑みを浮かべる。

「おいしー」

「確かに。普通に絞るのと、なにかが違うからな。久しぶりに私も頼む」

「もちろんですとも」

そう請け負った執事長の声は、どことなく嬉しそうだった。

「なんだよこの家族! 誰かもっと突っ込めよ!」

喚く王太子をそのまま、オレンジの爽やかな香りが広がる執務室で、シリウスは久しぶりに和やかな時間を過ごしたのだった。

先に帰宅するサフィニアたちを、シリウスは念のため馬車まで見送ることにした。ちなみに執事長は先に行って馬車の用意を頼んであるので、今は親子三人だ。

隣を歩くサフィニアと、腕に抱えたアナ。すれ違う人たちがこちらを二度見三度見する。それほどこのふたりは似ているのだろうかと考えていたシリウスとは違い、サフィニアは別の感想を抱いていたらしい。

「みなさん、旦那様のことを見ていますね」

「私を? 毎日城にいるのに、私の顔などもう見飽きているだろう。きみとアナのことを見ているのではないか?」

「いいえ、まさか。さっきアナと一緒に歩いていても、誰の視線も感じませんでしたよ? 旦那様が子供を抱いているのが、ものめずらしいのではないでしょうか?」

「ああ、なるほど」

それならば理解できる。

シリウスとしては別に怒っているわけでもないのだが、なまじ造作が整っているせいで子供の目にはきつく冷淡に映るらしく、だいたいが泣く。なにをどう言っても泣く。面倒だと思うと表情に出るのでさらに泣く。子供との相性は非常に悪い男だ。

王太子ではないが、アナは確かに、少し変わっているのかもしれない。今も気ままに、シリウスの顔の輪郭に沿ってジェノベーゼを走らせて遊んでいる。

「ア、アナ……やめなさい。……すみません、旦那様」

そういうサフィニアの声は震えていた。笑いを堪えているのはわかっている。

耳にジェノベーゼの鼻先が数度ぶつかる。アナの口からがぶがぶ言うのが聞こえるので、シリウスの耳は今、ジェノベーゼに食べられている最中のようだ。

とりあえずこれだけは言っておきたい。

「馬は人の耳など食わない」

「じぇのべーぜ、めっ!」

アナが叱ると、ジェノベーゼがしょぼくれる。どうやらさっきの一件によって、新たな遊びを考案してしまったらしい。

(叱り方を間違えたのかもしれない……)

どうがんばっても子育ては向いていない。

子供の教育に挫折するシリウスがうなだれていた、そのときだった。

「キャー! シリウス様ではありませんか!」

突然降って湧いた黄色い声に反射的に身をこわばらせた。

こういう甲高い声を発する女性は顔を合わせたが最後、ろくなことにならないと、これまでの経験から証明されている。

嫌々、声のした方へと目を向けると、結婚前までしつこくつき纏ってきていた令嬢の姿が映り、シリウスは露骨に距離を取った。

もちろんそんなことくらいで察してくれるような生半可な相手ではない。

令嬢はシリウスに、ずいっと胸の谷間を見せつけるようなはしたない格好で擦り寄って来た。

まったくどんな教育をしたらこれほど下品に育つのか。これが自分の娘ならば卒倒する自信がある。

自分がすっかり親目線になっていることに苦笑しつつ、シリウスは令嬢を突き放した。

「やめろ、離れろ」

シリウスが嫌がっているのがわからないのか、令嬢は構わずに捲し立てる。

「お会いしたかったですわ! 結婚したと聞いて、わたし、とてもショックで……!」

「結婚したとわかっているのなら、離れろ。妻に誤解されると困る」

ついでにアナにも変な影響を与えられると困る。この娘、吸収力が凄まじいのだ。その耳障りな甲高い声を出すことを覚えたらどうしてくれる。

「どうせ政略結婚なのでしょう? こんな地味な女と愛のない結婚をするなんて……なんて不憫ですこと!」

令嬢は、そばで静観していたサフィニアを鋭くにらみつけた。さすがに彼女が妻だと気づいたのだろう。シリウスはサフィニアを庇うように、アナを抱くのと反対の手でその腰を引き寄せた。くだらない妄言で清廉な妻が穢れてはたまらない。

「こういう類の人間は人の話を聞く耳を持たない。なにを言われても無視していればいい」

シリウスがそう囁くと、サフィニアは困ったように眉を下げて微笑んだ。

「存じ上げております」

そういう人間のことをよくわかっているような、諦観のこもったその響きに引っかかりを覚えている間に、令嬢がサフィニアの肩をどんっと押すという暴挙に出た。

「シリウス様の妻の座に収まったからって、いい気になってるんじゃないわよ! 親密な振りまでさせて、嫌味な女ね、離れなさいよ!」

「貴様っ、なにをする!」

さすがにシリウスの堪忍袋の緒が切れたところで、それまでぽかんと大人たちのやり取りを眺めていたアナが、ママがいじめられたことに腹を立てたのか、令嬢の頭にジェノベーゼの鼻先を、がすっ、とぶつけた。

「がぶがぶ! がぶがぶ!」

キャー! と相変わらず耳障りな声で悲鳴をあげる令嬢に、アナは容赦なかった。散々鼻先をぶつけてから、今度はジェノベーゼのしっぽでその頬を連打する。鞭のようにしなるしっぽもさることながら、しっぽの先のファサッとした毛が目に入るという、地味に嫌な攻撃でもあった。

「アナ! だめよ、やめなさい!」

サフィニアが必死に止めに入る。いい気味だが、さすがにまずいかと、シリウスはふたりを令嬢から引き離した。

物理的に距離を取ると、アナとジェノベーゼによって髪も化粧もぐちゃぐちゃにされた令嬢が呆然と立っているのがよく見えた。

たった二歳程度の子供にやられたとは誰も思わないだろう、なかなかにひどい惨状だなと他人事のように思う。

ジェノベーゼが鼻息荒く……いや、アナが興奮状態で、ふすふす言っている。

ボロボロの令嬢と、今や涙さえ浮かべて怒りを発している娘。どちらを先に宥めるか、考えるまでもなかった。

「アナ。ママは平気だ。だから気持ちを鎮めなさい」

「ママ……!」

人に暴力を振るうのはいけないことだが、自分のためにしたことだとよくわかっているサフィニアは叱るに叱れない顔で、どうにか落ち着かせようとアナの小さな頭を撫でていた。

ほっとしたのか、それともまだ怒りを抑え込めないのか、とうとうアナの涙が決壊した。

「なんて暴力的な子供なの!」

その令嬢の声に重ねるように、アナが泣きながら絶叫した。

「やぁぁぁぁぁーーーー……!!」

腹の底からの渾身の甲高い叫び声に、シリウスは静かに片耳を押さえた。努力の甲斐なく、高音域の発し方を覚えてしまったらしい。どうしてくれる。

「ちょっと、人の話を」

「うあぁぁん!!」

「このっ」

「うあぁぁぁぁあ!!」

アナがジェノベーゼのしっぽを持ってめちゃくちゃに振り回すと、手からすっぽ抜けて令嬢の顔面に直撃した。ジェノベーゼもどことなく目を三角にして歯を剥き出しにしていたところが恐ろしい。ジェノベーゼ、そんな顔だっただろうか。

床に四本脚で見事に着地したジェノベーゼを回収して、毛並みを整えてからアナへと戻す。

「なんてっ……なんて凶暴な子供なの……!?」

あれほど疎ましく思いながらもなかなか撃退できずに歯がゆい思いをしていた相手だったのに、こんな小さな子に怯える姿は滑稽だった。

「私の娘になにか文句でも?」

「む、娘……?」

驚いたようにアナとシリウスを交互に見やる。容姿は似ていないが、こうして抱っこしているのだからどこからどう見ても親子だろう。親子でなければなんだと言うのか。

「この程度、よくある子供のお遊びの範疇だろう。めくじら立てるほどのことか?」

騒ぎに集まって来た人たちは、令嬢とアナを見比べて、あらあら派手に暴れたわねー、という顔の者と、あんなに幼い子供を泣かせたのかと眉を顰める者とで二分されていた。

世間の声などそんなものだ。親でもなければ、こんな小さな子供をわざわざ叱りつけたりしない。

それに最初に手を出したのは向こうだ。

「わ、わたしは、その変なぬいぐるみで殴られたのよっ!?」

「おうましゃん、じぇのべーぜなの!」

変なぬいぐるみと言われたジェノベーゼはショックを受けて固まっている。……いや、ぬいぐるみなので元から動きはしないが、なんとなく。

「なんなの、どんな躾をしてるの!? もし顔に傷でもついていたら……」

令嬢が一瞬企み顔になるのを見てしまった。

続く言葉に嫌な予感を覚えたシリウスだったが、令嬢を遮るようにアナが鋭く一喝した。

「おしゃるしゃん、うるしゃい!」

シリウスは咄嗟に俯いた。もちろん、噴き出しそうになるのを我慢するためである。

「さ、さる……?」

唖然とする令嬢に、サフィニアが娘の失態をごまかすように、やや的外れのフォローをしはじめた。

「猿の知性は高くて、五歳くらいの子供と同程度でとても賢いのですよ……? それに猿の中には、鼻が真っ赤で頬は青という、お顔の色合いが派手な種類も存在していますし……」

その情報をどう処理しろと言うのか。シリウスの腹筋はもはや崩壊寸前だ。

サフィニアは自分が因縁をつけられていたことを忘れてしまったのだろうか。

それとも、実は地味と言われた件を根に持っていて、目の前の令嬢のことを五歳程度の知能しかない派手な顔の女と遠回しに罵ったのだろうか。

サフィニアの様子を窺うに他意はなさそうだが、ますます状況が悪化しているのは間違いない。

仕方なく、シリウスが場を鎮めるべく口を開いた。

「傷がついたところで、元々たいした顔ではないだろう」

「「!?」」

なぜかサフィニアも含めて野次馬ごと場が凍りついたが、静かになったのなら別にそれでいい。

「子供はぬいぐるみではない。それくらいで騒いでいるようでは、きみには子育ては難しいだろう。顔うんぬんの前に、どうせ嫁ぎ先など見つからない」

そう言うとなぜか、野次馬までもが恐ろしい生き物でも見たかのような目でシリウスを凝視してきた。

大臣たちや役人たちと話すときのように、嫌味や皮肉を織り交ぜた辛辣な物言いはしていないのだが。

ひどい、冷血漢、人の心がないのか、などと囁く声が聞こえるが、そんなものとっくに言われ慣れている。

風に吹かれたら吹き飛びそうなくらいに真っ白になって呆然とする令嬢を置き去りにして、シリウスはサフィニアとアナを連れてその場を離れた。

野次馬が道を開けてくれたので、遠慮なく真ん中を通らせてもらう。

「もう大丈夫だ。たぶん二度と近寄って来ないだろう」

「おしゃるしゃん、やー……」

キィキィうるさい人間を猿と称するところは、シリウスと似た感性を持っている。……いや、もしかすると、接するうちにシリウスに似てきたのかもしれない。

嬉しくもあるが、アナが冷たい人間と謗られることのないよう、できれば容姿だけでなく性格もサフィニアに似てほしいものだ。

覚えたての甲高い声は今後は封印してくれと願いながら、同様の襲撃をされないように馬車まで急ぐ羽目となった。