作品タイトル不明
第1話「転生先が幕末なんですが、しかも長州藩なんですが」③
指定された会合所に着く。
萩城下の中級藩士の屋敷。俺は足軽身分なので、裏口から入る。この時代、身分によって入り口が違う。前世なら「サービスエントランス」ってやつだ。配達のお兄さんが使うドア。俺の人生、だいたいこっち側だ。正面玄関から入るのは取引先の人たちで、俺はいつも裏方だった。それがこの時代でも変わらない。ある意味、安心する。
通された部屋は八畳の座敷。床の間に掛け軸。茶器が並んでる。障子は閉まってる。密談の空気だ。
中に三人。全員こっちを見てる。全員すでに座ってて、俺だけ立ってる。入室のタイミングで全員の視線が集中する。圧がすごい。この部屋の空気、密度が高すぎる。前世の重役会議でも、ここまで空気が重くなかった。
一人目。
長身。色白。面長。柔和な笑み。目が細い。優しそうに見える。しかし、その目は笑ってない。観察してる。俺という人間を、入ってきた瞬間から観察して、評価して、値踏みしてる目だ。
この目、知ってる。前世の部長。穏やかな声で「村上くん、ちょっと」と言いながら、とんでもない案件を振ってくるタイプ。あの笑顔のまま人を死地に送る種類の上司だ。笑顔だから断れない。怒ってる上司より、笑ってる上司のほうが百倍怖い。なぜなら「怒ってる」には理由がいるけど、「笑ってる」には理由がいらないからだ。
桂小五郎。後の木戸孝允。長州の頭脳にして、幕末最強の「笑顔で人を追い詰める男」。
二人目。
小柄。細身。しかし存在感がありすぎる。部屋の隅に座ってるのに、目がそっちに吸い寄せられる。痩せてるのに、なぜか「大きい」と感じる。目がギラギラしてる。口元に薄い笑い。何が面白いのか知らないけど、ずっと笑ってる。こっちを見てる目が、品定めじゃない。「面白いかどうか」を判定してる目だ。
高杉晋作。奇兵隊を作った男。功山寺で一人で決起した男。「面白きこともなき世を面白く」とか言って死んだ男。この時代の人間じゃない。テンションがおかしい。エネルギーが体から漏れ出してる。多分、寝てるときもこんな顔で寝てるんだろうな。寝てるときも「面白い」って思ってそう。
三人目。
大柄。がっしりとした体。彫りの深い顔。眉間に皺はないが、表情全体が「真剣」で構成されている。そして目だ。目が……なんというか、熱い。純粋すぎる熱が宿ってる。前世の会社にこんな目をした人間はいなかった。こんな目で見られたら、こっちはもう「はい」しか言えない。それがわかってる目だ。
久坂玄瑞。松陰の義弟にして、長州藩きっての論客。そして、禁門の変で死ぬ男。資料集で見た肖像画よりずっと若くて、ずっと生々しい。生命力がありすぎる。とても「この人あと数年で死ぬんだよな」とは思えない。
長州のトップスリーが、一堂に会している。
そして三人とも、俺を見ている。
胃がキリキリする。前世で培った危機感知センサーがフル作動だ。この配置、完全に「詰め」の空気。裁判で言うところの、被告が証言台に立たされて判事三人に見下ろされてる構図。
「おう、俊輔。来たか。待っておったぞ」
桂が微笑む。声が優しい。前世の部長が会議の冒頭で「いやー、村上くん、いつもご苦労さま」と言う時の声と完全に一致する。これは前振りだ。褒める→座らせる→爆弾を落とす。黄金パターン。
「失礼します」
正座する。膝が痛い。前世でも正座は苦手だった。三十分で足が痺れる。この時代の人たちは正座の耐久力が違う。みんな平然としてる。
高杉がじろじろとこっちを見る。
「こいつが例の? ひょろいのう」
ひょろいのは否定しない。事実だ。あと、あなたの基準で言われると「お前も十分ひょろいだろ」って思うけど、言わない。絶対に言わない。この人の目、笑いながら全然笑ってないから。
「まあ聞け、高杉」
桂がたしなめる。笑顔のまま。笑顔のまま高杉を制御できるの、この人だけじゃないか。
「俊輔。単刀直入に聞く。お前、英語ができるそうだな」
きた。英語。
TOEIC 820点。ビジネス英語なら困らない。メール、電話会議、プレゼン資料。海外出張も数回ある。ネイティブと議論できるほどじゃないけど、実務レベルならいける。そして、この伊藤俊輔って体にも、蘭学の基礎が入ってるらしい。長崎でちょっとかじったらしい。前世の英語力と現世の蘭学素養が混ざると、この時代の基準では「英語ができる」になる。ラッキー? いや、ラッキーかどうかはこれからの話次第だ。
「……少々は」
謙遜する。前世でも「英語できますか?」と聞かれたら「少々」と答えてきた。できるけど、期待値を上げないのが処世術だ。「少々」と言っておけば、少しできただけで「おお、やるじゃないか」になる。最初から「できます」と言うと、ちょっとつまずいただけで「なんだ、できないのか」になる。これが社畜の自己プロデュース術だ。
「少々で構わん」
桂がうなずく。笑顔。
「英語ができて、かつ、度胸がある——」
「度胸はありません」
即答した。反射で。こればかりは謙遜じゃなくて事実だ。度胸? あるわけないだろ。昨日転生したばかりでまだ状況が呑み込めてないのに、度胸なんて都合よくついてくるか。
高杉が噴き出す。
「はっ! 正直な奴じゃ」
「謙遜するな」
桂は笑みを崩さない。
「稽古場での評判は聞いている。十本打たれて十本立ち上がる。度胸がなければできん芸当だ」
「それは度胸じゃなくて——」
条件反射です。倒れてると評価が下がるからです。会社で培った生存本能です。そう言いかけて、やめる。説明が面倒だ。というか、理解されない気がする。この時代の人に「ブラック企業の社畜の条件反射」を説明するのは、たぶんキリンにインターネットを説明するくらい難しい。
久坂が口を開く。低い、よく通る声。
「伊藤。お前に聞きたい。日本は今、どうすべきだと思う」
きた。大問題だ。長州で最も思想的影響力のある男の一人が、俺に問うてる。適当なこと言ってごまかせるレベルじゃない。
でも、まあ、俺の手持ちの札は「社畜テンプレ回答」だけだ。それをちょっとアレンジして使う。昨日の勉強会と同じことは言えない。あれは若手向けの「現場の心得」だ。今度は経営陣向けの「戦略っぽいけど中身スカスカ」な言葉がいる。
「……自分のような末端には大きすぎる問いですが。強いて言えば——」
一拍置く。ここで間を取るのが、説得力のあるフリをするコツだ。
「井戸の中の蛙に、なってはならぬかと」
久坂の眉が、ぴくりと動いた。
「井戸の中の蛙?」
「はい。外の世界を知らずに、中のことばかり語るのは、井戸の中の蛙と同じです。蛙はそれが世界の全てだと思っておりますが、実際には空はもっと広い。海も、山も、見たこともない国も何も知らぬままでは、正しい判断も、正しい備えもできませぬ」
場の空気が、変わった。
桂の笑顔が、一ミリだけ深くなった。高杉が、口元の笑みを消した。久坂は目を見開いて、俺を凝視している。瞳の奥で、何かが燃え上がるのが見えた。
「……外の世界を知らぬままでは、か」
久坂がつぶやく。声が震えてる。感情が入ってる。
「攘夷を叫ぶ前に、まず敵を知れ。そして己を知れ。そのために、外の世界を自分の目で見る必要がある。お前はそれを、すでに理解しているのだな」
いや、ですから、ただのことわざです。井戸の中の蛙大海を知らず。それだけです。小学校の国語で習うレベルのことです。深読みしすぎです、先輩。
久坂が立ち上がる。そして、俺の前に膝をつく。
え、ちょっと、何してるんですか先輩。土下座のポジションじゃないですかそれ。俺がやる側ですよそれ。
「伊藤」
真っ直ぐな目。燃えている。純粋に、真摯に、疑いなく、俺を「何か」だと信じている目。
「お前は、松陰先生の遺志を継ぐ者だ」
違う違う違う違う。
「俺は、お前に期待する」
重い。めちゃくちゃ重い。物理的な重さじゃない。精神的な質量だ。この人の「期待」は、たぶん千トンくらいある。「期待してる」って言う人の口から、こんなに真剣に、こんなに純粋に、こんなに重く言われるとは思わなかった。前世の「期待してるよ」は、だいたい「残業よろしく」と同義だったのに。こっちの「期待」は、なんかもう、魂を預けられてる感じがする。やめてほしい。俺の魂は空っぽなんです。中身は社畜とTOEIC 820点だけなんです。
桂が、満足そうにうなずいた。
「さすが久坂。察しがいい」
何を察したんですか。俺はことわざを言っただけなんですが。でももう誰も俺の話を聞いてない。三人とも「決まったこと」として次の段階に進んでる。
桂が俺に向き直る。笑顔。穏やか。柔らかい。でも目は全然笑ってないし、口調には「これは決定事項だ」という圧力がある。
「俊輔。来月、英国に人を送る。密航だ」
密航。
この二文字が、頭の中で反響した。
みっぽう。密かに航海する。鎖国中の日本から、こっそり船に乗って外国に行く。バレたら死罪。バレなくても、難破するかもしれない。病気になるかもしれない。何ヶ月も船に揺られて、缶詰で、海のど真ん中で。
死ぬかもしれない。
「お前に行ってほしい」
桂の声が、やけにクリアに聞こえる。現実感が増す。これ、冗談じゃない。夢じゃない。本当に俺に「英国に行け」って言ってる。この笑顔の男が。
時間が止まった気がした。蝉の声だけが聞こえる。畳の目が見える。自分の膝が見える。正座した膝の上で、手が汗ばんでる。
密航。英国。長州ファイブ。
歴史で習ったやつだ。1863年、長州藩から五人の若者が命がけでイギリスに渡った。伊藤博文はその一人だった。史実だ。教科書に載ってる。センター試験に出るやつだ。
つまり、これは。
起こるべくして起こってる。歴史通りの展開。俺が転生したことで何かが変わったわけじゃない。もともと「伊藤俊輔」は英国に密航する運命だった。俺はただ、その役を引き継いでるだけ。
でも。
知識として知ってることと、自分の身に降りかかることは、まったく別物だ。
「……鎖国中ですよね?」
声がかすれた。
「そうだ」
「バレたら死罪ですよね?」
「そうだな」
桂は笑顔のままだ。そうだな、じゃねえよ。笑顔で「そうだな」って言うな。こっちの心臓に悪い。いや、もう心臓は前世で壊れてるんだけど。こっちの心臓は若くて健康なんだけど、それでも縮む。
「断る選択肢は——」
「ないな」
笑顔で即答。間髪入れず。予想してましたって顔で。
高杉が大笑いする。
「はははは! いい顔するなぁ、お前! 目が死んどるぞ!」
お前に言われたくない。あんたの目も大概ギラついてて怖いわ。
高杉が身を乗り出す。
「なあ、俊輔。俺も行きたいんじゃがな。こっちに用があって行けんのじゃ。お前、代わりに面白いもん見てこい」
「……面白いもの、ですか」
「そうじゃ。英国っちゅう国の、面白いもん全部じゃ」
面白いかどうかの問題じゃない。死ぬかどうかの問題だ。この人にとっては全部「面白い」か「面白くない」かの二択なのか。死のリスクすら「面白い」に入るのか。価値観が違いすぎる。
久坂が真剣な目で俺を見つめる。
「伊藤。これは日本の未来のためだ。君の力が必要なんだ」
その目。真剣すぎる目。純粋すぎる目。熱がある。信仰にも近い熱。
重い。この人の期待が、肩に乗る。肩だけじゃない。内臓にまで沈み込む。胃に来る。物理的な質量を感じる。
「久坂先輩。自分のような者が行っても——」
「謙遜するな」
遮られた。
「桂さんがお前を選んだ理由を、俺は分かっている。さっきお前が言ったことだ。『井戸の中の蛙になってはならぬ』。それは、外の世界を自分の目で見なければできないことだ。お前はそれを分かった上で言ったのだろう」
違います。ことわざを適当にアレンジしただけです。でも久坂はもう止まらない。
「お前のような男が英国を見る。そして帰って来て、我々に教える。井戸の外に何があるのかを。『己』が何であるかを。『相手』が何であるかを。それが、今の長州に最も必要なことだ」
俺は口を開き、そして閉じた。
反論が通じる空気じゃない。三人とも「もう決まったこと」として処理してる。
桂は手配の話を始めてる。
「横浜のジャーディン・マセソン商会に話を通してある。乗船は来月五日。それまでに長崎へ——」
高杉は酒の話を始めてる。
「壮行会じゃ! 久坂、酒を用意しろ! 銘酒じゃぞ!」
久坂は俺の顔をじっと見て、何か決意したようにうなずいてる。
俺の意見は?
ない。最初からなかった。なかったことにされている。
社畜十年の記憶が告げる。
「もう決まった案件に抵抗するのは消耗するだけだ。受け入れて、被害を最小化する方向で動け」
俺は深く息を吸って、吐いた。
「……拝命、いたします」
桂がにっこり笑う。
「良い返事だ」
良い返事じゃない。諦めの返事だ。「NO」と言えない弱者の返事だ。でもこれが俺だ。前世もこれだった。残業も出張も面倒な案件も、全部「わかりました」で受けてきた。それが積もり積もって、三十二歳で心不全で死んだ。でも死んでもこの性格は治らなかった。転生しても治らなかった。俺という人間の根幹は、どうやら「断れない」で出来ているらしい。