軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「転生先が幕末なんですが、しかも長州藩なんですが」②

夕方。藩校というか、有志の勉強会。松下村塾の流れを汲む若手の集まりだ。ここで「文久三年」という日付の文書を見つける。文久三年。西暦何年だ。

ちょっと待て。計算しろ。幕末年表、うろ覚えだけど……生麦事件が1862年。去年起きたらしい。ということは、今は1863年か。

1863年!

頭の中で警報が鳴る。この年、何が起きる? 下関戦争だ。長州が外国船を砲撃する。翌年、四カ国連合艦隊が報復に来る。その翌年、禁門の変。池田屋事件。怒涛のスケジュールじゃないか。幕末オブザイヤー、候補作が多すぎる。全部やらかす気かこの藩は。

胃が痛い。転生初日で胃が痛い。物理的にキリキリする。前世では胃薬が手放せなかった。この時代に胃薬はあるのか。いや、ない。漢方薬か。葛根湯? あれ風邪だろ。胃に効く漢方って何だ。六君子湯? わからん。不安すぎる。

勉強会の内容は攘夷論だった。「いかにして夷狄を打ち払うべきか」。真剣に議論してる。俺は末席で黙ってる。存在を消す。前世の会議でも同じだった。部長が「意見ある人?」って言っても手を挙げない。指名されるまで絶対に発言しない。これが俺の処世術だ。

……指名された。

「俊輔。お前はどう思う。最近の情勢を」

前原だ。真面目な顔で俺を見てる。他の連中も俺を見てる。

逃げられない。全員の視線が集まってる。こういう時、前世の俺はどうしてたか。

社畜の会議テンプレート回答を脳内で検索。「過激すぎず、保守すぎず、しかし何か言っているように聞こえる無難な発言」……よし、生成完了。

「……難しい問題ですが。自分は、まず『目の前の一人』かと」

前原が首を傾げる。

「目の前の一人?」

「はい。攘夷だの開国だの、大きな話は頭のいい方々がなさればよい。自分は、剣もろくに振れない足軽です。ですから、まずは隣にいる仲間が、明日もきちんと飯を食えるようにすること。それだけを考えております」

これも実質「何も言ってない」に等しい。「目の前の一人を大事に」なんて、どの時代のどの組織でも通用する無難ワードだ。前世なら「村上くんはいつも現場主義だね」で流される。それでいい。それでいいんだ。

しかし。

前原が目を見開いた。

「……深いな、お前」

は?

「目の前の一人、か……。確かに。攘夷を急いで足元の仲間を疎かにしては、それこそ本末転倒だ。まず藩内の一人ひとりを固め、足並みを揃えてからこそ、大きなことを為せる。うむ、正論だ」

違う。そういう深い意味はない。ただ無難に……いや、待てよ。これ、また「勝手に深読みされてる」パターンか?

「松陰先生も似たことを仰っていた。『志を立てるは、まず人を立てることから』と。俊輔、お前は松陰先生の薫陶をよく受け継いでおる」

吉田松陰の教えなんて一ミリも知らない。俺が知ってる松陰先生の知識は「松下村塾やった人」「刑死した人」の二つだけだ。

でも否定しない。これが社畜の鉄則。自分の評価は自分で作るな。他人の勝手な好意的解釈に乗っかっておけ。否定さえしなければ、人はどんどん評価を盛ってくれる。盛られた評価が後で面倒を呼ぶか? 知らん。今はこの場を平和にやり過ごすのが先だ。

「……恐れ入ります」

頭を下げておく。とりあえず下げとけ。土下座は日本の伝統的コミュニケーション様式だ。俺は前世で何度も取引先に頭を下げてきた。床に頭を擦りつける技術なら誰にも負けない。時代が違っても、頭を下げる動作に変わりはない。

夜。長屋に戻る。

飯は自炊だ。米を炊く。味噌汁を作る。おかずは干物。以上。侘しい。侘び寂びにもほどがある。前世ならコンビニで弁当と缶ビールだった。それより貧しい。酒もない。酒、買う金があるか? 財布を探る。あった。中身を見る。……一文銭が数枚。金銭感覚がわからない。この金額で何が買えるんだ。

いや、そもそもこの時代の通貨単位って何だ。両? 分? 朱? 文? ややこしすぎるだろ。なんで十進法じゃないんだ。一両が何文だ。四貫文? いや時代によるのか。もういい、考えるのやめよう。どうせ金はない。それは前世と同じだ。

干物を噛みながら考える。

状況整理。

一、伊藤俊輔として転生した。場所は長州藩の萩。時期は1863年。

二、体は健康で若い。ただし剣術は最弱クラス。

三、周囲は攘夷で沸騰中。あと数年でこの国はめちゃくちゃになる。

四、自分は歴史上、最終的に生き延びて総理大臣になる。ただし何もしなければ。

五、前世のスキル、英語(TOEIC 820点)、調整力(中間管理職十年分)、土下座、根回し、深夜残業への耐久力。

六、前世にないスキル、戦闘力、カリスマ、人を率いる能力、決断力、度胸、早起き。

結論。

「……生き延びよう。ひたすらに」

箸が止まる。

前世のことを考える。三十二年間。小中高大と進学し、就活して、入社して、上司に従い、顧客に頭を下げ、後輩の面倒を見て、評価面談で「もう少し主体性が欲しい」と言われ続け……

何も成し遂げなかった。誰にも覚えられない。遺産は空き缶と未使用のフライパン。明日には忘れられる人生だった。

だからこそ。

次の人生は「生き延びる」。それだけでいい。偉くならなくていい。歴史を変えなくていい。幕末をサバイブして、明治を迎えて、畳の上で老衰で死ぬ。そういう、前世で果たせなかった「当たり前の死に方」を、俺は求めてる。

……まあ総理大臣にはなるんだけど。歴史通りなら。でもそれは「なる」結果であって、俺が「なりたい」わけじゃない。そういうことにしておこう。出世欲ないんで、俺。

干物を食べ終わる。米を最後の一粒まで食べる。前世では残すこともあったけど、この時代の米は貴重だ。残すと干物をくれなくなる。たぶん。

布団を敷いて横になる。蚊帳を吊る。この体が勝手にやり方を知ってる。便利だ。

目を閉じる。

明日も朝稽古。明日も雑用。それでいい。前世と同じだ。やることがあるほうがいい。暇だと余計なこと考えるから。

眠りに落ちる直前。

隣の部屋から声がする。前原だ。

「俊輔、起きとるか。明日、桂さんがお前に用があるそうだ。それから高杉さんと久坂さんも同席だと。何じゃろうな、三人も揃って」

薄暗い蚊帳の中で目が開く。

桂小五郎。高杉晋作。久坂玄瑞。

長州のトップスリーが、俺に用?

三人まとめて?

嫌な予感しかしない。前世で役員三人が揃って「村上くん、ちょっと」と笑顔で呼びに来る時は、百パーセント地雷案件だった。しかも三人って。何だそのフォーメーション。重役会議じゃねえか。

「……何だろうな」

返事をする。心の中で「何もありませんように」と念じる。

しかし祈りが通じた試しは、前世でも一度もなかった。

◇ ◇ ◇

朝が来た。容赦なく来た。俺の意志とは無関係に来た。

「俊輔ー! 朝稽古じゃー!」

声で目が覚める。前原だ。相変わらず元気すぎる。こいつが俺の朝を破壊する担当だ。前世で言うところのアラームだ。スヌーズ機能は搭載されていない。しかも物理で叩き起こすタイプ。竹刀を構えて待ってる。嫌すぎる。

体を起こす。全身が痛い。昨日の稽古のアザが疼く。若い体だから翌日にはある程度回復してるけど、それでも痛いものは痛い。肩こり腰痛がないことだけが救いだ。

道場に着いて、竹刀を握る。構える。打たれる。転がる。起き上がる。打たれる。転がる。起き上がる。

本日の成績。十本打って、十本負けた。

ただし。

「おっ、俊輔。先ほど、わしの竹刀に触れたじゃろ」

「……手応えありました?」

「ああ。ほんのちょっとな。進歩じゃ」

進歩。相手の竹刀にかするのが「進歩」。基準が低すぎるのか、自分のレベルが低すぎるのか。たぶん後者だ。でも、まあ、昨日よりはマシということで。前向きに捉えよう。昨日まではゼロだった。今日はゼロよりちょっとだけマシ。この方向性で行けば、あと百年くらい稽古したら一勝できるかもしれない。

稽古の後、井戸で水を浴びて、着替える。

前原が走り寄ってきた。

「俊輔、桂さんたちがお待ちじゃ。すぐに来いとのことだ」

「……わかりました」

逃げられない。社畜の悲しい性だ。上司(桂は上司じゃないけど、なんかもう上司みたいなものだ)に呼ばれたら行く。疑問を飲み込んで行く。これが俺の呪いだ。