軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「転生先が幕末なんですが、しかも長州藩なんですが」④

会合所を出る。

午後も遅い時間だった。日が傾きかけてる。蝉はまだ鳴いてる。本当にいつ休んでるんだあいつら。俺より働いてる。

足が、勝手に動く。

気がついたら、お梅の茶屋の前に立っていた。城下の外れ。小さな店。赤い毛氈を敷いた床几が二脚。暖簾に「梅」の字。侘しいけど、なんか落ち着く店構え。

なんでここに来たんだろう。考えてない。体が勝手に向かってた。たぶん、この店が、今の俺にとって唯一「安全地帯」だからだ。桂も高杉も久坂もいない。攘夷の話も天誅の話もない。ただ茶があって、なんかこう空気が軽い。

暖簾をくぐる。

「あら」

声がした。若い女の声。柔らかいけど、地に足がついた響き。

お梅。歳は俺と同じくらいか、少し下か。丸い顔に大きな目。手ぬぐいで髪を束ねてる。茶屋の看板娘で、実質的には一人で店を回してる。

彼女が俺の顔を見て、首を傾げる。

「俊輔さん。こんな時間に珍しいね。しかも、なんか顔色悪いよ」

「……茶をくれ」

「はいはい。いつもの?」

「いつもので」

床几に座る。途端に体の力が抜ける。不思議だ。桂と高杉と久坂のいた部屋では石みたいに固まってたのに、この店に来ると肩の力が消える。何でだろう。お梅に癒しのオーラがあるのか? いや、たぶんそうじゃない。この店が単純に、俺にとって「何も期待されない場所」だからだ。

お梅は俺に何も期待してない。「維新の希望」なんて思ってない。「先見の明がある」なんて勘違いしない。ただの常連客だ。それがありがたい。

お梅が湯呑みを置く。茶の香り。湯気が立つ。

「何かあった? 顔見ればわかるよ。いつもより三割増しくたびれてる」

「……海外出張を命じられた」

「海外?」

お梅が首を傾げる。あ、そうか。この時代に「海外出張」って言葉はないか。

「外国だ。イギリス。行けって」

「へえ。出世じゃない」

「出世……」

出世なのか。死地に飛び込むことと出世は、この時代ではあまり区別がないのかもしれない。命がけの仕事を任されるのが「認められた証拠」なんだろう。でも俺は認められたくない。無視されてたい。黙って茶をすすって、静かに暮らしたい。

「いつ出るの?」

「来月」

「ふうん。遠くに行くんだ」

「遠い。船で四ヶ月くらい行ったところにあるらしい」

「四ヶ月!?」

お梅が目を丸くする。初めて見た表情だ。いつも落ち着いてるのに、さすがに驚いたらしい。

「それはまた……。体、大丈夫? 船酔いとか」

「たぶん大丈夫じゃない」

「あはは。弱気だねえ」

笑う。彼女が笑うと、茶屋の空気が少しだけ明るくなる。なんだろう、この感じ。癒される。前世で言うところの「会社帰りに寄る行きつけの飲み屋」的な。

沈黙。茶をすする。蝉の声が遠くに聞こえる。ここだけ時間がゆっくり流れてる。外の世界は攘夷だ天誅だと殺伐としてるのに、この店だけ隔離されてるみたいだ。

俺は口を開いた。自分でも驚くことに。

「正直に言うと、怖いんだ」

あれ? 今、俺、弱音を吐いた?

誰かに「怖い」なんて言ったの、いつ以来だ。前世でも言ったことなかったかもしれない。上司に「大丈夫です」、部下に「なんとかなります」、同僚に「まあ、頑張りましょう」。そればっかりだった。弱音を吐く相手がいなかった。いたとしても、吐けなかった。吐いたらダメだと思ってた。

なんで今、この茶屋で、この女に……

お梅は驚かなかった。表情も変えない。茶を注ぎ足しながら、さらりと言った。

「知ってるよ」

「……え?」

「俊輔さん、いっつも怖そうな顔してるもん。稽古の帰りにここに来る時、顔が強張ってる。周りは気づいてないみたいだけどね」

見られてた。見抜かれてた。

「怖くないわけないよね。今の御時世。攘夷だの天誅だの、物騒な話ばかりじゃない」

「……まあ」

「でもさ」

お梅が、俺の湯呑みを指でとんとん、と叩く。茶が満ちてる。湯気が揺れる。

「あんた、怖い怖い言いながら、結局やるんでしょ。断らないんでしょ。いっつもそうじゃん」

ぐうの音も出ない正論だった。

そうだ。俺はいつもそうだ。嫌だ嫌だと思いながら、全部引き受けてきた。断り方が分からないのか、断る勇気がないのか、断ったあとの空気が怖いのか。たぶん全部だ。

「……まあ、断れなかったから」

「ほらね」

彼女が笑う。呆れと、でもほんの少しだけ温かい何かが混ざった笑い方。馬鹿にされてるのとは違う。こういう笑い方をされるの、悪くないな。

「じゃあさ。無事に帰ってきなよ。帰ってきたら、お茶出してあげるから。いつもので」

「……ありがとう」

ああ、これだ。こういうのでいいんだ。誰かに「帰ってこい」と言われること。「お茶出すから」と言われること。たったそれだけで、人間は少しだけ頑張れる。前世では誰も言ってくれなかった。「村上くん、お疲れさま」はあったけど、「帰ってきなよ」はなかった。その違いは、けっこう大きい。

茶を飲み干す。立ち上がる。

「お梅」

「ん?」

「……行ってくる」

「うん。行ってらっしゃい」

暖簾をくぐる。外は夕暮れに変わり始めてる。蝉の声が少し弱くなって、かわりにヒグラシが鳴き始めてる。もうすぐ夜だ。

夜。長屋の自分の部屋。

布団に横になって、暗い天井を見つめてる。

蚊帳の網目越しに、かすかな月明かり。虫の声が遠くで鳴いてる。スズムシか。前世ではマンションだったから、虫の声なんて聞こえなかった。静かだったけど、それはそれで別の騒音があった。冷蔵庫のモーター音、隣の部屋のテレビ、上の階の足音。こっちの「静かさ」は、もっと深い。

情報を整理する。

来月、密航。英国へ。四ヶ月の船旅。死罪のリスクあり。

歴史知識の確認。長州ファイブは全員生きて帰ってきた。伊藤博文と井上馨は途中で帰国するけど、それでも無事に着いてる。つまり、少なくともこの航海で死ぬ可能性は低い。歴史が変わらなければ。

歴史が変わらなければ。

大事なことだ。「俺が何もしなければ」史実通りに進む。「俺が余計なことをしなければ」伊藤博文は暗殺されるまで生き延びる。つまり俺の生存戦略は明確だ。

何もしない。流れに身を任せる。歴史通りに動く。

これが正解のはずだ。

でも、一つ引っかかる。

桂の顔。高杉の期待。久坂の目。

あの人たちは、俺を「何か」だと思ってる。俺が言った適当な言葉を深読みして、「この男は見えている」と信じ込んでる。その期待が重い。でも、期待されるとなんていうか、応えたくなるのも事実だ。社畜の性だ。期待されたら断れない。「任せたぞ」と言われたら「わかりました」と言ってしまう。たとえ自分にできるかどうか、まったく確信がなくても。

クソ。面倒な性格だ。本当に面倒だ。

寝返りを打つ。

考えろ。手持ちのカードは何だ。

一、英語ができる。TOEIC 820点+伊藤俊輔の蘭学素養。この時代の基準では「英語話者」は超レア人材。たぶん藩内では俺だけ。

二、調整力がある。中間管理職十年分。人と人の間に入って話をまとめるのは慣れてる。会議の進行、根回し、落とし所を見つける。

三、土下座ができる。これは冗談じゃなくて、わりと重要だ。この時代、交渉の場で頭を下げられる人間は意外と少ない。武士は誇りがあるから。

四、幕末史の概要を知ってる。細かい日付は忘れたが、大きな流れはわかる。誰がいつ死ぬか、どの戦争がどうなるか。

逆に、ないもの。

一、戦闘力。竹刀すらまともに振れない。刀は論外。銃も撃ったことない。たぶん撃てない。

二、カリスマ。人を惹きつける魅力はゼロ。俺が演説したらみんな寝る。

三、決断力。重大な決断を迫られると、とりあえず考えるふりをして時間を稼ぐタイプ。前世の会議でさんざんやった。

つまり結論は変わらない。

「前線に出るな。裏方に徹しろ」

情報を集め、整理し、人間関係を調整する。誰かが無茶を言ったら、それをどうにか現実的なラインに落とし込む。上と下の間に入って、両方の顔色を見ながら落とし所を探る。

前世と変わらない。中間管理職だ。

村上恒一は中間管理職として過労死した。

伊藤俊輔は中間管理職として、生き延びる。

そう決めた。

目を閉じる。明日から準備を始めよう。英語の復習。船旅に必要なもののリストアップ。横浜までの経路の確認。あと、もう一度、幕末の年表を思い出せるだけ思い出す。

「……死なない。今度は」

呟いた。誰も聞いてない。蚊帳の中で、ひとりごとだ。

死なない。今度こそ。

駅のホームじゃなくて、ちゃんと布団の上で。老いて、穏やかに目を閉じる。

それが俺の、今の人生目標だ。総理大臣になってもならなくてもいい。生きて、畳の上で死ぬ。ただそれだけで十分だ。

蝉が、遠くで最後の一声を鳴いた。