作品タイトル不明
第5話「ロンドン留学生活、あるいは社畜は休み方を知らない」③
その夜。下宿のリビング。暖炉に火が入ってる。ロンドンの九月はもう寒い。日本の十月くらいの気温だ。
五人で集まって酒を飲んでる。安いジン。労働者階級の酒。味は……まあ、アルコールっていう感じ。日本酒のほうが好きだけど、ないものは仕方ない。
話題は自然と「帰国したら何をするか」になった。
山尾。「俺は造船所を作りたい。日本の海を、日本の船で走らせる」
野村。「鉄道です。東京から大阪まで汽車を。絶対に」
遠藤。「造幣局。日本独自の貨幣制度。外国の通貨に振り回されない経済を」
井上。「鉱山開発じゃ。金、銀、銅。日本の地下には宝が眠っとる。掘り出して国を富ませる」
四人とも、目がキラキラしてる。具体的で、明確で、情熱がある。造船。鉄道。貨幣。鉱山。全部「ものを作る」仕事だ。手で触れられる成果物がある。
そして、俺に順番が回ってくる。
「伊藤は? お前は帰ったら何をするんじゃ」
井上が聞く。
……困った。
俺の「帰国後」って何だ。政治経済を学んでる。法学も少しかじってる。でもそれで何を作る? 船じゃない。鉄道じゃない。貨幣じゃない。俺が持ち帰るのは知識と情報だけ。形のないものだ。
正直に言うと、帰国後のことは「桂さんの言う仕事をする」以上に考えてない。保身。生存。それ以上でもそれ以下でもない。
「……まだ、わかりません」
「わからん?」
「ここで学んでることが、帰国後にどう使えるか、まだ見えてないんです。造船所とか鉄道とか、そういう具体的な形が」
井上が首を傾げる。
「お前、政治を学んどるんじゃろ。なら政治をやれ」
「政治、ですか」
山尾がうなずく。「伊藤は人の間に立つのが上手い。合ってると思うぞ」
遠藤。「交渉力もある。語学力もある。外交官でもいける」
野村。「伊藤さんはなんでもできるから、逆に一つに絞れないんですよね」
なんでもできるんじゃない。なんにもできないから、消去法で雑用係をやってるだけだ。雑用係が全能に見えるのは、この時代の解像度が粗いからだ。
でも。「政治をやれ」か。
国の仕組みを作る仕事。井上のその言葉が、頭の隅に引っかかる。
俺は今、まさにそれを学んでる。議会制度、法の支配、立憲君主制。英国の「国の仕組み」を。そしてそれを日本に持ち帰る。いつか、どこかで使う。
「いつか」じゃない。確実に使う。俺は知ってる。伊藤博文が後に大日本帝国憲法を起草し、議会制度を設計することを。歴史が決まってる。
でも、今の俺にはその自覚がない。「国の仕組みを作る」なんて大それた動機はまだない。「保身」だけでそこまで行けるか?
動機が足りない。何かが足りない。
「……まあ、帰ったらわかるでしょう。今は学べるだけ学んで、持ち帰る。使い道は後で考えます」
「お前らしいのう」
井上がジンをぐいっと飲む。
「慎重っちゅうか、石橋を叩き割るっちゅうか」
「叩き割ったら渡れないでしょ」
「ははは! 確かに!」
笑い声。暖炉の火がパチパチ鳴る。
こういう夜は悪くない。五人で飲んで、未来を語って、笑う。前世の会社の飲み会とは全然違う。あっちは愚痴と悪口と始発待ちだけだった。こっちは「未来」を語ってる。しかも本気で。全員、冗談じゃなく「日本を変える」と思ってる。
俺だけが夢がない。
でも、こいつらの夢を聞くのは嫌いじゃない。むしろ、面白い。楽しみですらある。
◇ ◇ ◇
ロンドン生活五ヶ月と三週間。ある日の午後。
図書館から下宿に戻ると、井上が待ってた。顔が硬い。珍しくジョッキを握ってない。これはただごとじゃない。
「伊藤。手紙が来た」
「手紙?」
「日本から。桂さんの筆跡じゃ」
ああ、来たか。ついに。
知ってた。「いつか来る」と。それが今日だっただけだ。
封を切る。桂の達筆な文字。相変わらず読むのに苦労する。達筆すぎるんだよこの人。
速読。
内容——
五月十日。長州藩、下関海峡で外国船を砲撃。攘夷決行。その後、報復として四カ国連合艦隊が編成されつつある。英国、フランス、オランダ、アメリカ。来年夏までに攻撃が行われる見込み。藩の状況は極めて厳しい。外交に通じた人材が必要。至急、帰国されたし。
最後の一行。
「伊藤。お前の英語力と交渉力が必要だ。帰って来い」
手紙を畳む。目を閉じる。
開ける。井上を見る。
井上の顔も硬い。同じ手紙を読んだか、察したか。
「……帰るのか」
「帰ります」
「いつ」
「できるだけ早く。ここから日本まで船で四ヶ月。来年の夏までに帰るなら、もう動かないと」
井上がうなずく。一瞬の間もなかった。即断即決。こういう時、この人は本当にすごい。
「俺も行く」
「え?」
「俺も帰る。お前一人で帰して、あの交渉の場に俺がいないわけにはいかん」
「でもまだ学ぶことが——」
「学ぶ時間は終わりじゃ。使う時間が来た。行くぞ、伊藤」
有無を言わせぬ口調。でも嫌じゃない。むしろ、ありがたい。一人じゃない。
残る三人に告げる。
「俺と井上さんは帰国します。下関の件で藩がピンチです。三人は残って、学べるだけ学んで帰ってきてください」
山尾が目を見開く。「伊藤……」
「学んだことを持ち帰るのが三人の仕事です。俺と井上さんは先に帰って火を消す。役割分担です」
遠藤がうなずく。「わかった。気をつけろ」
野村が泣きそうだ。「……寂しくなります」
「大丈夫です。死にはしません。たぶん」
「たぶんって言わないでください!」
山尾が手を差し出す。握手。技術者の手だ。硬くて、温かい。
「伊藤。必ず生きて帰れ。日本で会おう」
「ええ。必ず」
下宿の前。ロンドンの灰色の空。霧雨が降ってる。相変わらず天気が悪い。最後までこれか。もう少し晴れてくれてもいいのに。イギリスらしいと言えばイギリスらしいけど。
三人と別れる。背を向けて歩き出す。井上が隣を歩く。
「伊藤」
「はい」
「帰ったら、大変になるぞ」
「知ってます」
「楽しかったな。ロンドン」
「……ええ。楽しかったです」
本当に楽しかった。五ヶ月。短かった。でもこの五ヶ月で学んだこと、得たものは、前世の十年間より濃い。
知識だけじゃない。仲間。この四人と過ごした時間。初めてまともに機能した「チーム」。信頼。前世にはなかったものが、ここにはあった。
でも……
もう行く。行かなきゃいけない。長州が燃えてる。俺の「居場所」が燃えようとしてる。
それに。
お梅の茶屋、無事かな。あそこが焼けたら、帰る場所が一つ減る。
「伊藤。何考えとる」
「……茶が飲みたいな、と」
「はあ? お前、大事な時にそんなこと——」
「帰ったら、うまい茶を飲みに行くんです。常連の店があって」
井上が呆れた顔をする。でもすぐに笑う。
「ほう。女か」
「違います。茶です。茶」
「顔が赤いぞ」
「寒いからです。ロンドンの九月は寒い」
「五月にロンドンを発って九月か。季節感がめちゃくちゃじゃな」
「ですね。まあ、どうせ船に乗ればまた季節が変わるんでしょうけど」
船旅、また四ヶ月。帰りもまた船酔いか。米のない地獄のビスケットか。胃が痛くなってきた。
でも、今度は一人じゃない。井上馨がいる。それだけで、だいぶ違う。
「行くか」
「行きましょう」
ロンドンの霧雨の中、二人で歩き始める。港へ。船へ。日本へ。長州へ。
ロンドン生活、終了。