軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「ロンドン留学生活、あるいは社畜は休み方を知らない」②

ロンドン生活二ヶ月目。日曜日。

大学が休みの日、五人で「視察」に出ることが増えた。建前は「英国文明の視察」。本音は観光だ。誰がなんと言おうと観光だ。観光の何が悪い。

この日は大英博物館。

入口に着いた瞬間、全員が立ち止まる。でかい。ギリシャ神殿みたいな柱。ファサードだけで日本の城一つ分くらいある。

「……でかいのう」井上。

「あれ全部が一つの建物か」山尾。

「入場料は?」遠藤。

「無料です」俺。

「無料!?」

四人の声がハモった。そう、無料なのだ。大英博物館は入場無料。この規模の施設がタダ。英国の国力の見せ方としてエグい。公共教育に金を惜しまない。見習いたいけど、日本でやったら藩の財政が死ぬ。

中に入る。

エジプトの間。でかい石像が並んでる。ラムセス二世。オシリス。スフィンクス。どうやって持ってきたんだこれ。船で運んだのか。人力か。クレーンか。全部すごいけど倫理的にはだいぶアウトだ。

ギリシャの間。パルテノン神殿の彫刻が丸ごとある。アテネから剥がして持ってきたやつだ。

井上が腕を組む。

「伊藤。これ、全部ギリシャから持ってきたんじゃろ」

「ええ。エルギン伯って人が五十年くらい前に」

「つまり泥棒じゃな」

「……まあ、当時は合法だったとか。いや、今でもギリシャは返せって言ってますけど」

「ほら泥棒じゃ」

否定できない。大英博物館のコレクションの多くは、帝国が世界中から「収集」……うん、「収集」って綺麗な言葉だな。「略奪」とも言うけど。

井上が展示品を見る目が変わった。

「これが帝国か。強い国は、弱い国の宝まで持って行く」

「……そうなりますね」

「日本も、このままなら持っていかれる側じゃ」

空気が重くなった。でも本当のことだ。この時代の日本は間違いなく「持っていかれる側」だ。開国を迫られ、不平等条約を結ばされ、治外法権を認めさせられてる。

でも、俺は知ってる。日本は「持っていかれる側」から脱出する。明治維新を経て、日清日露を経て列強になる。歴史を知ってる俺だけがその未来を確信できる。

今は言えないけど。「大丈夫、日本は後でめっちゃ強くなります」とは言えない。根拠を示せないから。

だから代わりに……

「だからこそ学ぶんでしょう。井上さん」

「……ああ。学んで、帰って、使う。それしかないな」

ミイラの間。古代エジプトの棺。三千年前の死体が安置されてる。

野村が顔を真っ青にしてる。

「……これ、本物の、人間、ですか」

「本物です」

「うっ……!」

「触らなければ大丈夫です。呪いもたぶん迷信です」

「たぶんってなんですかたぶんって!」

遠藤が野村の肩を叩く。「大丈夫だ。死んでるから襲ってこない」「そういう問題じゃないです!」

笑い声。博物館の警備員が「シィーー!」って睨んでくる。でも止まらない。こういう時、五人はただの「若者」に戻る。志士でも留学生でもなく、初めて見る世界に驚いて、怖がって、笑う。二十歳前後のただの若者。

前世の修学旅行を思い出す。博物館でふざけて先生に怒られた日。あれと同じだ。時代が違っても、やることは変わらない。

人間って変わらないな、と思う。

◇ ◇ ◇

ロンドン生活三ヶ月目。

英語が、全員、飛躍的に伸びた。

井上はもう日常会話に困らない。文法は相変わらず爆裂に荒い。でも声がでかいので通じる。コミュニケーションにおける「声の大きさ」は正義だと、この男は本能的に理解している。理論より実践。文法より気合。ある意味正しい。

山尾は技術用語を中心に語彙を増やしてる。日常会話はまだたどたどしい。でも論文は読める。工学英語は読める。技術者として正しい伸び方。日常会話なんて後回しでいい。

遠藤は穏やかな会話力を身につけた。発音が綺麗。人当たりの良さが英語にも反映されてる。このタイプは語学が伸びる。なぜなら失敗を怖がらないから。恥をかくことを恐れない人間は語学で勝つ。

野村は若さの暴力で、最も「英国人っぽい」英語を話すようになった。スラングまで使い始めてる。下宿の隣人の息子と友達になったらしい。若者の適応力、恐るべし。

そして俺。

俺の通訳の仕事が、少しずつ減ってきた。

井上が一人で買い物に行ける。山尾が大学の事務手続きを自分でできる。野村が一人で道を聞いて帰ってこれる。

これは非常にありがたい。

ようやく「一人で全部背負う」状態から解放されつつある。俺が倒れたら全員詰む、という地獄の構図がようやく崩れてきた。チームに冗長性が生まれた。いいことだ。前世で言うところの属人化の解消。業務の標準化。分散化。プロジェクトマネジメント的に正しい。

でも、問題が一つ。

暇になった。

いや、正確には暇じゃない。講義もあるし勉強もある。でも「俺がやらなきゃ五人全員が詰む」という命がけの緊張感が薄れると、体が勝手に別の方向に動き出す。

何を始めたかというと、情報収集だ。

大学の図書館で新聞を読み漁る。「ザ・タイムス」。「ザ・デイリー・テレグラフ」。「ジ・エコノミスト」。議会の議事録。外交委員会の報告書。英国の政治動向。経済指標。植民地情勢。極東政策。

なぜか。

理由は自分でもよくわかってない。「帰国後に使うかも」という漠然とした予感。あるいは、単に前世の癖。

前世の中間管理職時代、俺は業界ニュースを毎朝チェックするのが習慣だった。競合の動き、市場の変化、法改正。直接自分の仕事に関係なくても、「知っておく」ことで不安が減る。知らないことが怖いから知ろうとする。不安症の現れだ。

同じことをロンドンでもやってる。

議会の議事録を読む。ペンで書き写す。箇条書きで。

「英国議会・外交委員会。対清政策の議論。軍事介入は最小限にすべきとの意見が大勢」

「通商政策。自由貿易主義の拡大。関税引き下げの流れ。日本との条約改正に影響する可能性あり」

「軍事費。海軍予算は維持。陸軍は縮小方向。『小さな戦争への介入疲れ』の空気あり」

これらの情報が後でどう使われるか、この時点の俺はまだ知らない。

でも、シンガポールで拾った新聞の延長線上にあることはなんとなく感じてる。英国は「なんでも武力で解決したい」わけじゃない。議会がある。世論がある。予算の制約がある。「戦争は儲からない」と考える商人たちがいる。

この国は一枚岩じゃない。弱点がある。隙がある。

その隙を探すのが、情報収集の目的だ。

……いや、目的なんて大層なものじゃない。ただの癖だ。社畜の性だ。情報を集めないと落ち着かないだけだ。

◇ ◇ ◇

ロンドン生活四ヶ月目。

俺の一日はこうなってた。

朝七時起床。パンと紅茶。八時に大学。午前は講義。昼にパブでパイ。午後は図書館。新聞と議事録と法律書と経済書。夕方に帰宅。夕食当番の日はジャガイモを煮る。夜は自習か読書。十一時就寝。

規則正しい。健康的。前世のブラック企業時代では考えられない「人間的な生活」。睡眠時間はたっぷり七時間。残業ゼロ。大学まで徒歩十五分。上司からの理不尽な電話もない。

でも。

日曜日も図書館に行ってる俺を見て、井上が言った。

「お前、休めよ。日曜まで勉強することないじゃろ」

「大丈夫です。慣れてます」

「慣れとるって……。日本におった時からそうだったんか」

「ええ、まあ」

前世からずっとそうだ。休み方がわからない。休んでるとソワソワする。「やるべきことが残ってる」という強迫観念が消えない。だから手を動かす。本を読む。情報を書き写す。止まると不安になる。比喩じゃなく、本当に。前世では止まった瞬間に死んだ。新橋駅のホームで動きを止めて、そのまま死んだ。

だから動く。学ぶ。情報を集める。

井上が俺の肩を掴んだ。強い手だ。握力お化け。

「伊藤。無理するな。お前が倒れたら、俺たちが困るんじゃ」

「……すみません」

「すまんじゃなくて。日曜は飯でも食いに行くぞ。うまいパブを見つけた」

「……はい」

連れ出された。日曜日。パブ。昼間からビール。フィッシュ・アンド・チップス。揚げたてのタラにモルトビネガーをかけて食う。うまい。脂と酸味と塩気。ビールで流す。完璧だ。

「どうじゃ」

「うまいです」

「じゃろう。お前は放っておくと干からびるんじゃ。たまには引っ張り出さんと」

井上が笑う。この人は、俺の上司でも同僚でもない。でも、なんだろう。前世にはいなかったタイプだ。

面倒見がいい。大きな声で。不器用に。「お前のため」とは絶対言わない。でも結果的に、ちゃんと面倒を見てくれる。

……ありがたい。素直にそう思う。

「井上さんは、俺の保護者かなにかですか」

「違うわ。チームの一員が潰れたら面倒じゃろ」

「やっぱりそれ、あなたのためじゃないですか」

「うるさい。黙って魚を食え」

はい。黙って食います。でもこれ、うまいです。本当に。