軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話「帰りの船、また四ヶ月ってマジかよ」①

帰路の手配は三日で済んだ。ジャーディン・マセソン商会ロンドン事務所のハリソンはまだいた。半年前に俺たちの密航を手配してくれた赤毛の英国人だ。

『おや伊藤さん、ずいぶん早いお帰りで』

『日本行きの船を。できるだけ早く』

『本国で何かあったか?』

『まあ、そんなところです』

ハリソンは商人だ。客の事情に深くは踏み込まない。金さえ払えば船は手配する。実にドライで助かる。

でも、出発の直前、ハリソンがポツリと言った。

『長州が下関で外国船を砲撃したって噂、聞いてるよ』

心臓が縮む。もうロンドンにまで届いてるのか。情報の伝達速度、思ったより速い。

『もしそれが帰国の理由なら、気をつけろよ。報復は容赦ないぞ』

『……分かってます』

『本当にわかってるか? 英国海軍は忘れないし、そう簡単に許したりしない』

わかってる。わかってるから帰るんだ。わかってるけど、やるしかない。

『ハリソンさん、警告をありがとうございます。そして、すべてに感謝を』

握手。ハリソンの手は乾いてて、力強かった。商人の手だ。金勘定と船の手配でできた手。

そして十一月。帰路の船に乗り込んだ。

往路と同じルート。ロンドン→大西洋→喜望峰→インド洋→シンガポール→日本。また四ヶ月。四ヶ月だ。往復で八ヶ月。人生のうちの八ヶ月を船の上で過ごすってどういうことだ。前世の最長出張が二週間だった俺には理解できない時間感覚だ。

でも、まあ、やるしかない。

◇ ◇ ◇

出港して一週間。大西洋のど真ん中。

最初の三日間はまた船酔いで死にかけた。往路と同じだ。人間は学習しない。いや、学習しても船酔いだけはどうにもならない。三半規管は裏切らない。

四日目から復活して、さて、と思った。

暇だ。

井上と二人きり。往路は五人でワイワイやってたからまだマシだった。野村がミイラにビビり、山尾が質問攻めをし、遠藤がなだめる。あの騒がしさが恋しい。

静かすぎる船室で、俺は机に向かった。机と言っても小さなテーブル。半紙を広げ、筆を取る。筆! また筆か! ロンドンで万年筆くらい買ってくればよかった! いや、1863年に万年筆はまだ普及してないか。くそ。

でも書く。頭の中にあるものを、全部吐き出す。前世の俺がいつもやってたことだ。大型案件の前に「準備ノート」を作る。クライアントの情報、競合の状況、自社の強みと弱み、想定問答、最悪のシナリオ。全部書き出す。書き出すと不安が減る。情報を「見える化」すると、恐怖が「タスク」に変わる。タスクなら処理できる。

というわけで、半紙の一番上に書いた。

『下関講和交渉 絶対に賠償額を減らす作戦会議』

自分で書いててちょっと笑った。作戦会議って。俺は軍師か何かか。いや、ただの雑用係だ。でも雑用係には雑用係の戦い方がある。

まず「相手」の情報を整理する。

英国。大英帝国。世界最強。海軍がバケモノ。でもロンドンで五ヶ月間、図書館に籠って新聞と議事録を読み漁った俺には、奴らの「弱点」が見えている。

弱点その一。議会が戦争を嫌がってる。

外交委員会の議事録。自由党の議員たち——たしかコブデン派とか呼ばれてた——が「極東での軍事行動は金の無駄だ」「戦争するより自由貿易を推進したほうが儲かる」と発言してる。議会には厭戦ムードがある。「長州をぶっ叩くのは賛成だが、その後ずっと駐留するのは反対」という温度感だ。

つまり。相手は「長期戦」をやりたくない。さっさと終わらせて帰りたい。これは使える。早期決着をこちらから提案すれば、向こうも乗ってくるはずだ。

弱点その二。商人たちが通商を望んでる。

ジャーディン・マセソンだけじゃない。ロンドンで会ったあの商人たち、名前は忘れたが、「日本との貿易が始まれば儲かる」と目を輝かせてた連中。戦争状態では商売にならない。早く正常化して商売したい。

つまり。英国の実業界は「日本を破壊する」ことではなく「日本と取引する」ことを望んでる。

弱点その三。海軍の維持費がバカ高い。

予算委員会の議事録を読んだ時、思わず吹き出しそうになった。海軍の年間維持費が国家予算の何割を食ってると思ってるんだ。極東に艦隊を派遣するだけで莫大なカネが飛ぶ。議会の予算委員会が「そんな無駄遣い許さん」と噛みついてる。

つまり。一回の報復攻撃はやる。でもその後まで金をかける余裕はない。ぶっ叩いて、賠償金をせしめて、さっさと撤退したい。それが本音のはずだ。

よし。相手の手札はだいたい見えた。

次に「こちら」の情報。長州藩。

弱み。

軍事力はゼロに等しい。四カ国を相手にできるわけがない。

砲台はたぶんもう破壊されてる。

藩の財政は火の車。

国際的信用はマイナス。攘夷とか言って外国船を砲撃した張本人。

……弱みしかないな。明るい材料ゼロ。経営破綻寸前のベンチャー企業みたいだ。いやベンチャーより酷い。ベンチャーならまだ借金でなんとかなる。こっちは借金する相手すらいない。

強みは……

考える。考えろ。ないはずがない。どんなクソ案件にも一つくらいカードがあるはずだ。前世の営業で学んだ。「絶対に勝てない案件」でも、何か一つは強みがある。見つけられないのはこっちの調査不足だ。

……あった。

地理だ。

下関海峡。ここは瀬戸内海の入口だ。長州がこの海峡を押さえている限り、外国船は安全に通れない。もし長州が「協力」しなければ、通商ルートが不安定になる。英国は商売したいんだから、それは困るはずだ。

つまり。長州を完全に潰すと、海峡の安全が保証できない。長州を「協力者」にしたほうが、英国の商業利益にかなう。

これだ。これがカードだ。弱者のカードはいつも「地理」だ。前世の営業でもそうだった。力では勝てない。でも「ここを通さないと困るでしょ?」という地の利で粘る。それと同じだ。

あともう一つある。

「長州が攘夷をやめて開国に協力する」という方針転換だ。これは英国にとっては「戦争で勝った成果」として議会に報告できる。要するに「長州を屈服させ、開国させた。だから討伐は成功だ」と。

相手に「勝った」と思わせる。その代わり、こっちの実質的な負担は減らす。

これが「落とし所」の設計だ。

半紙に殴り書きする。

『相手(英国)が欲しいもの』

一つ、面子(日本を懲らしめたと議会に報告できる)

二つ、金(賠償金は欲しい。でも長期戦のコストは嫌)

三つ、通商の正常化(安全に商売したい)

『こっち(長州)が守りたいもの』

一つ、金(賠償金を減らしたい。藩が破産すると俺の給料が出ない)

二つ、存続(藩を潰さないこと。潰れたら俺の居場所が消える)

『落とし所の提案』

一つ、賠償額を大幅に減額する(理由、長期戦のコストを考えれば、減額に応じて早期決着するほうが英国にも得。ついでに議会の厭戦ムードも援用できる)

二つ、代わりに長州は公式に攘夷を放棄し、開港に協力する(理由、これは英国にとって「戦果」になる。議会に「討伐は成功した。長州は開国に応じた」と報告できる)

三つ、下関海峡の安全航行を保証する(理由、通商の安定につながる。英国商人が喜ぶ)

Win-Winだ。

……我ながら、きれいにまとまった。前世で何十回もやった「落とし所の設計」だ。クライアントがキレてる。社内がミスを認めたがらない。営業が板挟み。そういう時にやることは「両方が『勝った』と思える着地点を探す」こと。どっちかが一方的に勝つ交渉は長続きしない。両方が「まあ、これなら」と思えるラインを見つける。

それだけだ。

でもこの交渉、前世と一つだけ違う点がある。それは「失敗したら人が死ぬ」ってことだ。

クライアントがキレても、せいぜい契約が切れるだけだった。上司に怒鳴られても、せいぜい評価が下がるだけだった。

今回は違う。賠償金を払えなければ長州が破産する。長州が破産すれば人が死ぬ。

胃が痛くなってきた。船酔いとは別の胃痛だ。もっと深いところがキリキリする。

胃薬……ああ、この時代に胃薬はないんだった。漢方でも探すか。いや、船の上だし漢方もない。自力で治せってか。無理だろ。