作品タイトル不明
第4話「船上、英語ができる『だけ』で重宝される地獄」④
航海九十日目。大西洋。
赤道を越え、北へ向かってる。風が変わる。海の色が変わる。そして、やることがない。
やることがないから、ついにあれを読んだ。
久坂先輩の論文。あの紙の束。出発前に託された「日本がこれからどうあるべきか」を書いたもの。
航海中の暇な時間を使って、全部読んだ。隅から隅まで。
感想。
半分は、古い。攘夷論の部分は、もう時代遅れだ。長州自身が攘夷をやって痛い目を見る未来を俺は知ってるから、その部分は「いや先輩、それは無理です」と言いたくなる。
でも。
残りの半分に、俺は目を疑った。
教育について書かれた項目。
『国を強くするは兵にあらず、民の知にあり。一握りの英傑が国を動かすのではない。万の民がそれぞれに学び、考え、声を上げる。その総体が国力である』
待て待て待て。
これ、あれだ。「民の声」。「万人の学び」。「一握りの英傑ではなく民の総体」。これって議会制民主主義の萌芽じゃないか? 少なくとも、その思想的基盤じゃないか?
1863年の日本人が、独力でここまで考えてる。輸入じゃない。翻訳じゃない。自分で考えて辿り着いてる。
やばくないか、これ。
前世の知識がある俺だからわかる。この文章の先に何があるか。この思想がどこに繋がるか。明治の議会制度。自由民権運動。大正デモクラシー。そして戦後の民主主義。
でも、この男は、あと一年で死ぬ。禁門の変で自刃する。歴史の教科書では「長州の烈士」としか書かれない。この教育論のことは誰も知らない。彼がこんなことを書いていたこと自体、歴史に残ってない。
もったいない。もったいなさすぎる。
そして、同時に思う。これ、俺が預かってるってことは、もしかして俺がなんとかしなきゃいけないやつか?
いやいやいや、ちょっと待て。俺はただの社畜だ。歴史を変える気はない。波風立てずに生き延びるのが目標だ。でも、この紙は、持ってる。俺が。俺の手元にある。
……まあ、いい。今は考えるのをやめよう。ロンドンに着いてから考えればいい。
でも、紙を畳んで懐にしまいながら、一つだけ心に刻んだ。
久坂先輩。あんたの頭の中、ちょっとヤバいよ。いい意味で。
◇ ◇ ◇
航海百二十日目。英仏海峡。
「見えたぞ!」
甲板で船員が叫ぶ。みんなが指差す方を見る。
霧の中に、白い崖。ドーバーの白い崖だ。英国の玄関口。写真で見たことある。でも実物は写真よりでかい。白くそびえ立ってる。石灰岩の壁。
五人が甲板に並んで立つ。風が冷たい。六月なのにインド洋の暑さが嘘みたいだ。灰色の空。灰色の海。白い崖。色彩がモノクロ。イギリスらしいと言えばイギリスらしい。
「……あれが英国か」井上。
「世界最強の国か」山尾。
全員が黙って見てる。四ヶ月。百二十日。吐いて、揺れて、喧嘩して、嵐に遭って、それでも辿り着いた。
テムズ川を遡る。景色が変わる。農地。小さな町。そしてだんだん建物が増えて、人が増えて、煙が増えて……
ロンドン。
最初に感じたのは、匂いだった。
石炭の煙。煤。汚水。馬糞。そして人間。三百万人の人間が一箇所に集まってる匂い。江戸も大概臭かったけど、こっちは別の種類の臭さだ。産業の匂い。文明の匂い。……いや、やっぱり普通に臭い。鼻が曲がる。マスクが欲しい。
次に感じたのは、音だ。
馬車の車輪。蹄鉄。怒鳴り声。笑い声。新聞売りの少年が叫んでる。工場の蒸気機関がシューシュー言ってる。全部が同時に聞こえる。東京のラッシュ時の十倍の密度。耳がバグる。
そして、景色。
レンガ。石。鉄。全部がでかい。建物がでかい。何十メートルもある教会の尖塔。煙突が林立してる。鉄の橋の上を馬車が走り、下をはしけが行く。川岸には倉庫が並び、奥にはロンドン塔。
四人が絶句してる。
野村が口を開けたまま固まってる。山尾が目を見開いて周囲をキョロキョロしてる。遠藤が「これは……」とつぶやいてる。井上が唇を噛んで、拳を握ってる。
俺は……
俺は冷静じゃなかった。
前世でロンドンを知ってるから、ある程度は免疫があるはずだった。でもダメだ。1863年のロンドンと21世紀のロンドンは別物だ。こっちは「帝国の心臓」が現役で動いてる。世界の富がここに集中してる。覇権の中心。そしてこれと、日本は戦争しようとしてる。
無理だ。
理屈じゃない。本能でわかる。この街を前にして、「攘夷」とか言ってる場合じゃない。刀と槍でこの街を相手にできるわけがない。鉄と石炭と蒸気と金でできた怪物がここにいる。
「伊藤」
井上の声。振り返る。井上の顔は怒ってる。でも、怒りの中に覚悟がある。
「……日本は、勝てるのか。これに」
正直に答えるしかない。嘘はつけない。
「力では勝てません。百年かかっても追いつけるかどうか」
井上の顔が歪む。でも俺は続ける。
「でも、学ぶことはできます。技術も、制度も、知識も。全部ここにある。戦うんじゃなく、学ぶ。盗むんじゃなく、取り入れる。それが一番合理的です」
井上がしばらく黙る。テムズ川の波。港の喧騒。カモメの鳴き声。
そして、こっくりと頷いた。
「……お前の言う通りかもしれん。戦って勝てる相手じゃない。なら、学ぶしかないな」
よかった。井上が納得した。この人は影響力がある。この人が「学ぶべきだ」と納得すれば、帰国後の藩内でも意見が通りやすい。
俺がさっき言ったことは、前世で読んだビジネス書の「ベンチマーキング」の話だ。「競合に勝てない時は、競合の強みを真似して自社に取り入れろ」。MBA一年目の教科書レベルの話。それが1863年の長州では「先見の明」に化ける。
この時代、チートすぎないか。俺の知識、全部ビジネス書の受け売りなんだけど。
まあいい。使えるものは何でも使う。生存のためなら。
◇ ◇ ◇
ジャーディン・マセソン商会が手配した宿。小さな宿だが、船室よりはマシだ。ベッドがある。シーツがある。枕がある。四ヶ月ぶりの「ちゃんとした寝床」。天国だ。文明万歳。
五人がそれぞれのベッドに倒れ込む。体がまだ揺れてる。陸に上がっても船の揺れが消えない。「陸酔い」ってやつだ。揺れてないのに揺れてる気がする。気持ち悪い。でも吐かない。もう吐くものがないからじゃない。ちゃんと飯を食ったからだ。宿で出た食事、普通のパンとスープだった。普通の! 石じゃない! 味がある! 文明っていいな! 文明に感謝! イギリス人のコック、ありがとう!
井上が天井を見上げて言う。
「……来たな。英国」
「ええ。来ました」
「帰りたいか」
「……正直、少しだけ」
井上が笑う。この人、意外とよく笑うな。最初は怖い人かと思ったけど、距離が近いだけだ。慣れてきた。
「同じじゃ」
沈黙。
山尾がベッドから声をかける。
「明日から何をする?」
「まず、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンへの入学手続きです。商会が手配してくれてるはずですが、確認が必要です」
「入学……講義は英語か」
「当然です」
「……聞き取れるかのう」
「最初は無理でしょう。でも三ヶ月もすれば慣れます」
前世の駐在員の経験則だ。最初の三ヶ月は地獄。三ヶ月で耳が慣れる。半年で口が動く。一年で夢を英語で見るようになる。信じるしかない。
野村が布団を被りながら、小さな声で言った。
「伊藤さん」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「何がです?」
「船の中で。色々と。伊藤さんがいなかったら、僕たちはここに辿り着けなかったと思います」
「大げさですよ。船が運んでくれただけです」
「でも。食事も。井上さんの喧嘩も。嵐の夜も。全部。伊藤さんがなんとかしてくれた」
……そう言われると、まあ、そうかもしれない。コックと交渉して食事を改善した。井上の喧嘩を止めた。嵐の夜に「大丈夫だ」と叫び続けた。振り返れば、それなりに動いてきた。
でも、それは「えらい」からじゃない。「やらなきゃ死ぬ」からだ。全部保身だ。打算だ。
でも。前世では、こういう「ありがとう」を一度も言われたことがなかった。
十年間の中間管理職。トラブルを処理し、人の間を取り持ち、プロジェクトを回した。でも誰も「ありがとう」とは言わなかった。「当たり前」だったから。中間管理職が仕事をするのは当たり前で、感謝されることじゃなかったから。
だから、今「ありがとう」と言われて、ちょっとだけ……
咳払いをしてごまかす。
「……寝ましょう。明日から忙しくなります。英語の講義です。聞き取れますかね。不安で胃が痛い」
胃が痛いのは本当だ。ロンドンに着いて、新たな地獄の始まりを予感して、既に胃がキリキリしてる。でも、この胃痛は嫌いじゃない。これは「生きてる証拠」の胃痛だから。
「おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
灯りを消す。暗くなる。ロンドンの夜の音が窓の外から聞こえる。馬車の蹄。酔っ払いの歌。遠くの工場の蒸気音。
目を閉じる。
英国に来た。四ヶ月の航海を生き延びた。五人全員、無事にここにいる。
第一関門、突破。
でもまだ先は長い。ここからが「学ぶ」フェーズだ。英語で講義。英語で議論。英語で生活。全部、未知の領域。胃が痛い。胃が痛いけど……
まあ、なんとかなるだろう。今までもなんとかなってきた。これからもなんとかするしかない。
それが俺の生き方だ。