作品タイトル不明
第4話「船上、英語ができる『だけ』で重宝される地獄」③
案件④ 船長に呼ばれる
航海二十五日目。ボイル船長から夕食に招かれた。
船長室。広くはないが、船内で最も快適な部屋だ。窓がある。ランプがある。机の上にワインと、乾燥肉と、チーズ。チーズ! チーズだ! 前世ではコンビニで買えたのに! 文明って素晴らしい!
「掛けたまえ、ミスター・イトウ。ほらワインだ」
「恐れ入ります、船長」
ワインを注がれる。口に含む。うまい。安物だろうが何だろうが、水とビスケットとオートミールだけの生活の後では天国の味だ。アルコールが染みる。
『で、聞かせてほしい。ミスター・イトウ。君たちはなぜ英国へ向かうんだ?』
直球。準備してきた質問だ。答えは決まってる。
『学ぶためです。我が藩は、これからの日本の未来には、西洋の知見を学ぶことが不可欠だと考えております』
『ふむ。だが君たちの国は……『鎖国』しているのではなかったか? 外国人に対して』
『表向きは、その通りです。だからこそ、私たちはこうして秘密裏に旅をしております』
『恐ろしくはないのか?』
ここで、少し考える。嘘をついても見抜かれる。この船長は目がいい。三十年海の上で人を見てきた目だ。
『怖いです。めっちゃくちゃ怖い』
正直に言った。隠しても意味がない。
ボイルが少し笑う。この人、笑うと顔が変わるな。普段は仏頂面なのに。
『正直な男だ。気に入った』
『正直なほうが時間の節約になるって、前の仕事で学びました』
『はっ!確かにそうだな』
ワインを一口。少しの沈黙。波の音が遠くで聞こえる。
『伊藤。お前は若いが、よく話し、仲間をまとめ、船員とも渡り合う。歳の割に出来すぎている』
「お世辞を言っていただいて、恐縮です」
「お世辞は言わん。観察しているだけだ」
船長が目を細める。値踏みする目じゃない。もっと別の、何かを確認する目。
『三十年、海で若者を見てきた。大抵は勇敢な馬鹿か、利口な臆病者だ。お前はどっちでもない。怖がってるが、ちゃんと動く。それは珍しい』
『……ありがとうございます。船長』
褒められた。たぶん、これがこの人の最高の褒め言葉だ。「怖がってるが、動く」。大英帝国の船乗りが、臆病者に言う言葉じゃない。つまり、認められたんだと思う。ちょっと嬉しい。でも顔には出さない。照れくさいから。
『ほら、もっとワインを飲め』
結局この夜、二人でワインを一本空けた。船長は多くを語らなかったけど、時々「日本とはどんな国だ」と聞いてきた。四季がある。米を食べる。侍がいる。今、でかい変化の時期にある。俺は知ってることを話した。話しながら思った。俺、日本のことそんなに知らないな。前世でも日本史の成績はそこそこだったし。もっと勉強しとけばよかった。
船長が最後に言った。
『伊藤。英国で見つけたものは、全部持って帰れ。お前の国には、お前みたいな男が必要だ』
……大げさだ。俺はただの雑用係だ。
でも「お前みたいな男が必要」。前世で一度も言われたことがない言葉だった。ちょっとだけ、こう、胸のあたりが……いや、考えるのやめよう。ワインのせいだ。酔ってるだけだ。
◇ ◇ ◇
航海四十日目。シンガポール寄港。
初めての外国の港。熱帯だ。空気がむわっとする。湿気がすごい。萩の夏がカラッとしてるわけじゃないけど、こっちは次元が違う。服が肌に貼りつく。ヤシの木が生えてる。港には色んな肌の色の人間がいて、英語、中国語、マレー語が飛び交ってる。カオスだ。
五人が甲板から景色を見る。全員、目が丸い。
「こんな場所が世界にあるのか……」野村。
「暑い。萩よりひどい」山尾。
「人間の肌の色がこんなに違うとは」遠藤。
「面白いぞ、これは!」井上。
この人、未知のものを見るとテンションが上がるタイプらしい。高杉に似てるな。やめてほしい。
俺は黙って見てる。前世でシンガポールには出張で来たことがある。チャンギ空港。マーライオン。きれいな街だった。でも今は1863年だ。高層ビルもなければマーライオンもない。あるのは英国植民地の港と、東インド会社の倉庫と、交易の喧騒だけ。
ここでも「英語ができる俺」が全ての窓口だ。上陸しての買い物、情報収集、船との連絡。俺が全部やる。慣れた。もう慣れた。いや慣れてないけど、慣れたフリは上手くなった。
そしてシンガポールで一つ、拾いものをした。
港の片隅で売られてた英国の新聞。一ヶ月前のやつ。ロンドンから船で届いたんだろう。古いけど、情報には違いない。
パラパラと読む。前世の英語力で読める。速読は無理だけど、要点はつかめる。
そこに書いてあったこと。
英国議会で「極東政策」に関する議論があった。一部の議員が「東洋での軍事行動は商業利益に反する」と主張してる。予算委員会で「長期の軍事出費」に懸念が出てる。
ほう。議会で揉めてるんだ。戦争やりたい派と、やめとけ派がいる。これは……長州にとってはチャンスかもしれない。いや、まだわからない。でも、情報はあって損はない。
前世の営業時代の癖で、気になる情報を見つけたら必ずメモを取る。今もそうする。半紙に筆で書き留める。
「英国議会。厭戦論あり。商業利益優先の議員多数。長期出兵に予算的懸念」
この走り書きが、数ヶ月後、長州の講和交渉でとんでもない役に立つことになる。
でもそれは、また別の話だ。
◇ ◇ ◇
航海六十日目。インド洋。
嵐に遭った。
夜中。突然の暴風雨。船が傾く。木が軋む。ギシギシギシギシ。壊れるんじゃないか。いや、壊れないと信じたい。でも音が怖い。波が甲板を洗う。ドーン、ドーン、ドーン。規則的な轟音。規則的なだけに余計に怖い。自然のリズムで死が迫ってくる。
船室で五人がしがみつく。柱に。壁に。お互いに。何かに掴まらないと吹っ飛ばされる。
野村が泣いてる。ガチ泣きだ。十九歳。そりゃ怖いよな。遠藤も顔が真っ青。山尾は無言で柱に抱きついてる。井上が叫ぶ。
「死ぬのか! ここで死ぬのか!」
俺は……
俺も怖い。死ぬほど怖い。前世の死に方、駅のホームで心不全。あれはわりと静かな死に方だった。突然で、痛みもなかった(と思う)。でも今度は違う。溺死だ。水を吸って肺が潰れて、冷たい海の底へ……やめよう。想像するな。想像すると本当に死ぬ気がする。
でも、口が動いた。
「死にません!」
叫ぶ。嵐の音に負けないように、声を張り上げる。
「この船の水夫は経験豊富です! 三十年も勤めている船長です! こんな嵐、何度も乗り越えてきてます!」
根拠はない。いや、多少はある。ボイル船長の腕は確かだと思う。でも嵐に「絶対安全」なんてない。俺はただ、この場を収めるために言ってる。
「寝ろ! 無理でも目を閉じろ! 明日の朝には収まってる! たぶん!」
「たぶんって何じゃ!」井上がキレる。
「俺だって分からん! でも確率的には大丈夫だ! この航路を毎年何百隻も通ってる! 全部沈んでたら貿易が成り立たない!」
「確率? 何を言っとる!」
俺は何を言ってるんだ。もうパニックだ。俺もパニック。でも……
でも、これがPMの仕事だ。
プロジェクトマネージャー。チームがパニックの時こそ、PMは平静を保つ。保てなくても、保つフリをする。PMがパニックになったらチーム全員が崩壊するからだ。
前世で大型案件が炎上した時。クライアントが怒鳴り、エンジニアが逃亡し、上司が責任を擦り付けてきた時。俺は会議室で「大丈夫です。対策あります」と言い続けた。対策なくても言い続けた。まず「大丈夫」と言う。そうしないとチームが動かない。
今も同じだ。
「目を閉じろ! 朝まで寝ろ! 朝には終わってる!」
「終わってなかったらどうするんじゃ!」
「その時はその時だ! 今は寝ろ!」
「無茶苦茶じゃ!」
無茶苦茶でけっこうだ。嵐の中の理屈なんて無意味だ。今は「誰かが叫んでる」という事実が大事なんだ。チームがバラバラにならないように、誰かが声を出し続ける。それだけでいい。
そして……
嵐は朝には収まった。
全員無事。船も無事。損傷は軽微。ボイル船長が『ただのスコールだ。いつものこと』と涼しい顔で言った。この人、マジで肝が据わってる。俺なんかよりずっと。
五人が甲板に出る。朝日が海面を金色に染めてる。嵐の後は空気が澄む。海が穏やか。うそみたいに穏やか。
野村が泣いてる。今度は安堵の涙だ。遠藤が肩を叩く。山尾が深く息を吸って、吐く。
井上が俺の隣に来る。声が低い。
「伊藤。昨夜お前、怖くなかったのか」
「めちゃくちゃ怖かったです」
「見えなかったぞ。お前だけ平気そうじゃった」
「演技です」
「……演技か」
「はい。怖かったけど、全員が恐慌状態だったので。一人くらい落ち着いたフリしないと、収拾つかないと思って」
井上が俺を見る。長いこと。何か考えてる顔。
そして、小さく笑った。
「お前は、肝の据わった男じゃ」
「だから、そうじゃなくて——」
「いや。演技で平静を保てる奴を、肝が据わっとると言うんじゃ。本当に怖くない奴はただの馬鹿じゃ。怖くても動ける奴が、本物じゃ」
……船長と同じこと言ってる。
俺は黙る。何か言おうとして、やめる。反論する言葉が見つからない。自分は臆病で、保身的で、前世から何も変わってない。ただ「パニックの場で黙って立ってた」だけだ。それが「肝が据わってる」なら、この時代の評価基準は甘いのか、俺の自己評価が厳しすぎるのか。
たぶん、後者なんだろうな。
でもそれを素直に認めるのは、なんかこう……照れくさい。だから黙っておく。