軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話「船上、英語ができる『だけ』で重宝される地獄」②

案件② 井上馨、喧嘩を売られる

航海十二日目。この事件は俺の寿命を確実に三年縮めた。

甲板で。井上が船員と対峙していた。距離が近い。近すぎる。井上の肩に力が入ってる。握りこぶしができてる。船員は大柄な白人。赤い顔。酒臭い。酔ってるな。

『おい! てめぇ! 俺のロープに触ったな! その汚ねぇ手で俺のロープに触るな!』

状況を推測する。井上が作業中のロープに触った。船員にとってロープは商売道具。触られるのは嫌だろう。まあ分かる。自分のデスクの資料を勝手に触られたら俺もムカつく。

問題は、井上がこの男の言葉を一ミリも理解していないことだ。でも怒られてることは分かる。井上は怒られると怒り返すタイプだ。俺はそれを知ってる。出発前に桂から「気が荒い」と聞いてたし、初対面の時点でなんとなく察してた。でも、まさか最初のトラブルが井上とは。嫌な予感は的中するな。

「なんじゃ貴様! 何を怒鳴っとる!」

日本語で怒鳴り返してる。通じない。でも声量と態度で「引く気はない」と伝わってる。言葉の壁を気合で突破しようとしてる。無理だ。気合で言語は翻訳されない。

船員が一歩詰める。拳が握られる。

まずい。

ここで殴り合いになったら、俺たちは船を降ろされる。大海原のど真ん中で。救命ボートすらないかもしれない。つまり全員死ぬ。俺だけの問題じゃない。五人の命がかかってる。

走る。割り込む。二人の間に体を滑り込ませる。この動き、朝稽古で十本打たれて十本起き上がった経験が活きてる。痛みに慣れてるから、ぶつかるのを怖がらない。

『ストップ、ストップ! お願いです、待ってください! すみません、私が説明しますから!』

クレーム対応モード、全開。営業スマイル、リミッター解除。

『本当に申し訳ありません。こいつはあなたの邪魔をするつもりはなかったんです。船が初めてで、ロープワークが珍しくて見てただけで、決してバカにしたわけじゃ』

船員の顔が少し緩む。

『分かりもしねぇもんに触るんじゃねぇ』

『まったくその通りです。二度とないように僕から言っておきます。彼に代わって謝罪します』

ここで振り返って、井上に小声で早口。

「井上さん。この人は怒ってます。あなたが仕事道具に触ったからです。悪気がないのは分かってます。でも今は、頭を下げてください。ここで揉めたら、俺たちは船を降ろされます。海の上ですよ。陸が見えませんよ。泳いで帰れますか?」

井上の目が一瞬、鋭くなる。プライドが傷ついた目。でも数秒で、ふっと肩の力を抜いた。

「……分かった。すまんかった、と伝えろ」

『彼は心から反省しています。二度と同じことはさせません』

船員が鼻を鳴らす。

『わかった。二度と俺の持ち場に近づけさせんな』

『承知いたしました。寛大なご処置に感謝します』

船員が去る。

膝が笑ってる。アドレナリンが切れた反応。全身の力が抜ける。

井上が後ろからボソッと言う。

「伊藤。お前、あいつに何て言った」

「『彼は船に初めて乗ったので、ロープの結び方に感動して、つい触ってしまった。悪意はない』と」

「……嘘じゃな。俺は感動したんじゃない。邪魔だったから退かそうとしただけじゃ」

「はい。知ってます。でも『邪魔だったから退かそうとした』と正直に言ったら殴り合いですよね」

「…………」

井上が腕を組む。渋い顔。でも怒ってない。考えてる。

「お前、上手いのう。言い方をちょっと変えるだけで、相手の怒りが引くんじゃな」

「前……いや、現場で覚えました。『事実は変えなくていい。言い方を変えるだけで結果が変わる』って」

「ふうん。お前みたいな男が一人おると、場が丸くなるのう」

褒められてる。たぶん。でも俺がやったのはクレーム対応の初歩だ。前世で月に三件はこの手の仲裁をやってきた。怒れる顧客と怒れる社内の間に立って、両方の顔を立てつつ落とし所を見つける。あの地獄に比べたら、船員一人をなだめるくらいどうってこと……いや、ない。海の上だから死の危険があった。あれは普通に怖かった。心臓が口から出るかと思った。胃に穴が開いた。多分、残りの寿命も二年くらい縮んだ。

でも、まあ。乗り越えた。これでいい。

案件③ 俺、英語教師になる

航海十五日目。暇すぎて逆に疲れる。何もしないのに疲れるとはこれ如何に。景色が変わらない。海と空だけ。ゲームもネットもない。娯楽が「空を見る」「海を見る」「雲を見る」の三択。あとは寝るだけ。

そんな中、山尾が言った。

「伊藤。英語を教えてくれないか」

「え?」

「現地に着いたら、最低限の会話はできた方がいいだろう。挨拶とか、買い物とか」

うん、それはそう。四人が全く英語を話せないままロンドンに放り込まれたら、俺の通訳負荷が天井知らずになる。俺が睡眠時間を削って全対応する羽目になる。つまりこれは「自分が楽をするための先行投資」だ。よし、やろう。

「分かりました。じゃあ毎日一時間、やりましょう」

というわけで、船室の狭いテーブルを囲んで「伊藤式英語教室」が開講した。

生徒は四人。井上馨(27)、山尾庸三(24)、遠藤謹助(27)、野村弥吉(19)。年齢も性格もバラバラ。当然、習得の仕方もバラバラだ。

井上、覚えが異常に早い。耳がいい。発音の再現力が高い。ただし文法を完全に無視する。「ミー ゴー ロンドン. ユー カム?」みたいな、通じるけど壊滅的な文章を自信満々に話す。間違いを指摘すると「通じればいいじゃろ」と言う。まあ、通じるからいいか。

山尾、真面目。ノートを取る(半紙だが)。文法をきちんと理解しようとする。理系だ。Yes/No疑問文とWh疑問文の違いについて三十分質問してきた。教える側も勉強になる。

遠藤、穏やかに、でも着実に吸収する。「ありがとう」「すみません」「これはいくらですか」といった、生存に直結する表現を優先的に覚える。実用主義。合理的。

野村、最年少だけあって吸収が速い。若い脳みそは語学に強い。一週間で簡単な自己紹介ができるようになった。『私の名前は野村です。私は長州から来ました』。発音がきれい。これからの伸びしろが一番ある。

そして俺は教えながら思う。

「中間管理職の仕事は、自分がやることじゃなく、人にやらせることだ」

前世の上司の言葉だ。嫌いな上司だったけど、これだけは真理だった。俺が全部の通訳を一人で抱え込んだら、いつか倒れる。過労で。前世の二の舞だ。でも四人が少しでも英語を使えるようになれば、俺の負荷は減る。分散する。自分が楽になるために教えている。これもまた保身の一形態だ。打算だ。でも打算でいい。結果として全員のためになる。

しかし、周囲からは違う見え方をしているらしい。

ある日、山尾が言った。

「伊藤は教え方が上手いな。まるで教師のようだ」

いや、だから。ただのOJTの経験です。新人研修の講師を三回やらされただけです。しかも全部「お前、去年やったから今年もね」の流れ作業です。でもまあ、そう見えるならそれでいい。誤解で得するなら得しとけ。