作品タイトル不明
第4話「船上、英語ができる『だけ』で重宝される地獄」①
航海三日目にして、俺は確信した。
船酔いは人間の尊厳を根こそぎ奪う。
最初の二日間の記憶がほぼない。あるのは「吐いた」「揺れた」「また吐いた」「水を飲んだ」「吐いた」の無限ループだけ。前世の俺は三十二年間、吐くまで酒を飲んだことがなかった。なぜなら吐く前に寝るタイプだったからだ。今回は吐く前に寝られない。なぜなら船が揺れ続けるからだ。寝ても揺れる。起きても揺れる。トイレに行っても揺れる。トイレに行く途中で吐く。最悪だ。
五人全員が同じ状態だった。狭い船室に五人の男が転がり、代わる代わる桶に顔を突っ込む。絵面が地獄。地獄絵図。閻魔大王もドン引きするレベルのカオス。
船員が様子を見に来て、部屋を覗き込み、一言。
「オウ!ジャパニーズ… グリーン」
グリーン。緑。野菜じゃない。俺たちの顔色だ。鏡がなくてもわかる。顔面カラーチャートで言うところの「菜っ葉」だ。ほうれん草。小松菜。いい感じに茹でたブロッコリー。
三日目。ようやく少しだけマシになった。
正確には「慣れた」んじゃない。「吐くものがなくなった」だけだ。胃が空っぽになると、揺れても反応する中身がない。空の胃が痙攣するだけ。嘔吐には至らない。吐きたくても吐けない。これが「回復」と呼ばれる状態なら、人類の回復の定義は間違っている。
最初に復活したのは井上だった。
さすがの体力お化け。三日目の朝にはもう甲板に出て潮風を浴びてやがる。なんだあの回復力。ゾンビか。いやゾンビより速い。ゾンビでも三日で動き出すのは稀だ。
「伊藤。お前まだ寝とるのか」
「……もう少しだけ……」
「甲板に出ろ。風に当たった方が楽になる」
「動いたら吐きます」
「吐くもんがないじゃろ。二日間何も食っとらんのだから」
正論だった。正論が痛い。この人、体力だけでなく論理も強い。タチが悪い。
這うようにして甲板に出る。
風。海の風が顔に当たる。冷たい。塩辛い。魚の匂いがする。しかし船室の淀んだ空気(五人の吐瀉物の残り香付き)より百倍マシだ。天国だ。水平線が見える。空が広い。雲が遠い。ああ、俺はまだ生きてる。吐いてない。今この瞬間は吐いてない。それだけで幸福である。
こうして、船酔い編は終わった。
終わって、そして、本当の地獄が始まった。
◇ ◇ ◇
案件① 石と戦う日本人たち
航海一週目。全員が船酔いから回復し、「通常」の船上生活が始まった。
「通常」と言っても暇だ。海は広い。景色が変わらない。昨日と同じ海。一昨日と同じ空。やることがない。やることがないから腹が減る。腹が減るから食事の時間が待ち遠しくなる。そして食事が出る。
これが地獄の始まりだった。
木の皿に載っているもの。
硬いビスケット(二度焼き。保存用。石。石と表現するのが最も正確)
塩漬けの肉(色が怪しい。緑? いやグレー? どっちにしても肉の色じゃない)
豆のスープ(味がしない。味という概念がない。液体を名乗る何か)
五人がこの皿を見つめる。沈黙。
最初に口を開いたのは野村だった。遠慮がちに、おそるおそる。
「……これは、何ですか」
「飯です」
「飯……」
野村の顔に「この世の終わり」が浮かんでいる。いや、この世の終わりでももう少しマシな飯が出るかもしれない。
山尾がビスケットを手に取る。じっと見る。角度を変えて観察する。叩いてみる。コン、コン、と硬質な音がする。木材だ。木材を叩いた時の音だ。これがパン? 前世の俺が知ってるパンとは別の概念だ。これは「パン」という名前の建材だ。
山尾が思い切って噛みつく。
「硬い。歯が折れそうだ」
折れそう、じゃなくて、実際にミシミシ言ってる。やばい。歯が先に死ぬ。
遠藤がスープを一口。表情が消える。無になる。悟りを開いた僧侶の顔。
「味が……ない」
「ない、ということは」
「ない。存在しない。味という概念がこの液体からは削除されている」
遠藤、たまに詩的になるのやめてほしい。でも言いたいことはわかる。味がない。塩すら入ってない。素材の味すらしない。ただの温水だ。いや、温水ならまだ温かいからマシだ。これはぬるい。ぬるい無味液体。罰ゲームか何かか。
井上が肉を口に入れる。三回噛む。飲み込む。一言。
「不味い」
以上。井上の美食レポート、完。
沈黙。五人が皿を見つめる。誰も手をつけない。でも腹は減ってる。減ってるのに食えない。これが一番辛い。食欲はあるのに、食欲を満たす手段が「石」と「色の怪しい肉」と「味がない液体」しかない。拷問だ。
井上が俺を見る。真顔で。
「伊藤。なんとかならんか、これ」
「なんとか、と言われましても」
「お前、英語ができるんじゃろ。コックと交渉して、まともなものを出させろ」
いやいやいや。「英語ができる」と「食事の質を上げられる」は別のスキルです。言語能力と料理改善能力は相関しません。……でも、みんなの目がマジだ。全員が俺を見てる。「お前しかいない」という目だ。「お前がやれ」という目だ。中間管理職の呪いがまた発動した。
船のキッチンへ。
コックはマクレガー。太った中年の白人。スコットランド訛り。鍋をかき混ぜてる。この鍋から例の「味がない液体」が生まれているのか。犯罪の現場を目撃している気分だ。
『あの、マクレガーさん。ちょっとお時間よろしいですか?』
『あん? なんだい坊主』
『あの、その……船内に、お米ってありませんか? もしくは、オート麦とかでも構わないんですが』
『米だと? ここは清国人の船じゃねえんだぞ』
まあそう言うと思った。米はない。じゃあ次。
『ですよね、分かりました。ただ、私の連れたちがどうにも船の乾パンに馴染めなくて……胃に優しいもの、たとえば『お粥』にできるようなものがあれば、本当に助かるのですが』
マクレガーが俺を見る。値踏みする目。でかい図体で見下ろされる。威圧感がすごい。
『日本人にしては上等な英語だな。どこで覚えた』
『主に本です。あとは実践』
半分本当で半分嘘。本ってTOEICの参考書だけどな。実践って外国人のクライアントと電話で喧嘩した経験だけどな。
マクレガーが「ふん」と鼻を鳴らし、棚を漁る。
『麦ならある。朝に粥を炊いてやってもいい。だが、てめぇら五人分だけだ。他の船員に言うんじゃねえぞ』
『ありがとうございます。助かります』
『……で、坊主。日本じゃ普段何を食ってるんだ?』
おっ。食レポ。得意だ。前世の営業トークで磨いた「日本の食文化を外国人に説明する」スキルの出番だ。
『米に味噌汁、生の魚、あとは野菜の漬物なんかですね』
『生の魚か?』
『ええ、たまにですけど』
マクレガーが目を丸くする。
『野蛮だな!』
お前に言われたくないわ。保存料バリバリの色の怪しい肉出してるやつに野蛮呼ばわりされたくないわ。でも口には出さない。ここは笑顔で流す。営業スマイル、発動。
結果。翌朝からオートミールの粥が提供されるようになった。お粥。米じゃなくて麦だけど、この際文句は言わない。液体に味がついてる。それだけで革命だ。温かい。塩味がする。文明を感じる。
五人が茶碗(木の器だが)を手に取り、一口すすり、全員の顔がほころぶ。
「うまい」
「伊藤、ありがとう」
「お前のおかげじゃ」
「伊藤さん、すごい!」
俺がやったこと? 「コックに丁寧に頼んだ」だけだ。でも四人の中では「伊藤が英語で交渉して食事を改善した」という伝説になっている。買いかぶりもいいとこだ。でも、まあ、実績は実績か。こうやって一つずつ「伊藤俊輔は使える」という評判が積み上がっていく。