軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十四話 誰がための和平か

夜の 帷(とばり) はすでに下り、街灯一つない王都郊外を馬車が突っ切っていく。

馬車は車輪で地面の凹凸を拾い、速度が出ていれば出ているほど激しく馬車本体へ突き上げるような衝撃として伝わってくる。

御者に急がせている以上仕方のないことだが、乗り心地は最悪だ。いくら座面に上等なクッションがあってもどうすることもできず、ただただ耐え忍ぶしかない。そのせいでろくに考えごとに集中できなかった。

カルストン伯爵邸に辿り着いた私は、よろめきながらも小走りで目的の書斎へと向かう。出迎えた執事からの「先ほど軽食をお持ちしました、足りなければお言い付けを」という一言に頷き、後のことを任せる。

もはや着替える時間さえ惜しい。イブニングドレスのまま、アルバートの待つ書斎の扉を素早く三つノックした。

私はその直後に扉を開け、間抜けにも軽食の チーズホットサンド(クロックムッシュ) をかじる姿のアルバートが「ノックしたなら返事を待て!」と叫ぶのも無視して、書斎机に増えた紙——アルソナ王国の言葉で書かれたものだ——に目を落とす。

そこには、こう書かれていた。

『……これは 大宰相(サドラザム) の独断ではありません。確かに皇太后陛下にはご了承を得ておりませんが、この婚姻は両国の和平のために必要なことときっとご納得いただけることでしょう』

『 大失地(エントゥソン) を越えた先の東のヴァラオルク帝国や南のアハニヤ朝よりも、破竹の勢いで侵攻してくるアルソナ王国の先鋒のほうがよほど本国から近いのです。ここで食い止めねばなりません』

『皇后陛下および後宮の妃たちの子に先んじて手柄を得たいとおっしゃったではありませんか……ご自身でお決めになったことです』

私が目を通したのは、まだたった三つの文章だ。

なのに、ざわり、と心が毛羽立ち、身体中の血が 沸々(ふつふつ) と高温になっていく感覚を覚えた。

これらは、ニリュフェルへと宛てられた手紙の内容だ。

まるでニリュフェルが自分の意思でアルソナ王国へ嫁ぐと決めたかのように指摘し、後ろ盾からも引き離し、立案と実行した者の責任を曖昧にして、今の脅威と達成したときの成果を強調する。

これがもし、成人した王侯貴族相手なら、騙されたほうが悪いと言えた。

だが、ニリュフェルはまだ少女だ。謀略に巻き込まれ、足掻く力もなく、万一失敗しても被害の少ない駒として送り込まれた彼女は、どうすることもできなかったのだ。できるわけがない。

唯一、私へこれらの手紙を渡したことが、座して諦めずにいる彼女のささやかな抵抗だ。

私は、ため息を吐いた。長く、目を伏せて、心の中で無秩序にざわめく感情の大群を抑え込む。

そんな私へ、チーズまみれの手と口を拭いてから、書斎机の椅子に座るアルバートはこう言った。

「おい、トリッシュ。これはどういうことだ?」

私が出かけて帰ってくるまでの三時間余り、アルバートには考えをまとめるには十分な時間を与えたつもりだ。

なので、端的に私の知る状況を伝える。

「ウーリゼン帝国のニリュフェル姫殿下が、ウォルシャ伯爵邸で密かに滞在しているわ。おそらくドニー王子との婚約のために本国から連れてこられて、王宮では 閣僚会議(カウンシル) でドニー王子の婚約についてすでに決定事項のように扱われていることまで確認済みよ」

「お前、そんな機密事項を何で知って……」

「さらに、ニリュフェル姫殿下は婚約を嫌がっている。婚約を断るために私へ力を貸してほしいと、だからこそ、その手紙の数々を本人から直接預かってきたのよ」

「はあ!?」

「期限は明日の昼まで。今から考えるわよ、アルバート」

呆れて、驚嘆して、アルバートは黙った。頭を抱えているようだ。

だが、断りはしなかった。

「よし、分かった。まず、俺の話を聞け。いや、聞いてくれ」

「どうぞ。手短にね」

「……どうやっても長くなるんだが、まあいい」

必要なら耳に入れるのもやぶさかではないが、長くなるならば、と私は書斎机に腰掛けた。背もたれは必要ない。

アルバートは食べ終えた皿を書斎机の端に退けて、東の大陸の任地から今ここに至るまで何度も頭の中で整理しただろう現状の説明を口に出した。

「まず、東の大陸に進出したアルソナ王国貴族たちは、ウーリゼン帝国領へのさらなる大侵攻を望んでいる。お前の次兄、ウルフリック・イヴェルタリーはその際、最大戦力となりうる立ち位置にいるんだ」

でしょうね、と私はつぶやく。

戦争のためにイヴェルタリー伯爵家が出した戦力はそれなりに多いが、だからと言って大軍というわけではない。他の裕福な伯爵や司令官の公爵が本国から連れていった兵数のほうがよほど大きいだろう。

しかし、戦争が優位に進むにつれ、勝ち馬に乗る輩は必ず現れる。勝てる軍には傭兵や現地貴族の兵隊が自然と集まり、それ以外は大金で募集する。そういうものだ。

この三年間、我が次兄の快進撃を聞きつけた人々が次兄の麾下に続々と入り、今や他のどのアルソナ王国貴族よりも大規模な軍隊を抱えている。そのくらいは長兄との話でも出ていたから、私も知っていた。

そして、次兄は調子に乗るタイプでは決してないし、戦争狂でもない。ただし、勝てる戦を見過ごす人でもなかった。今ならば勝てると踏んでいることは間違いない。

だから、アルバートは次兄までさらに戦争の奥深くへ赴くのを止めるしかなかったのだ。

「俺は現地で必死に止めたんだぞ。採算が取れるだの何だのそういうことじゃない、本国の指示もなく勝手に戦争を進めるな、と。だからギリギリ他の貴族もお前の次兄と足並みを揃えられていたんだが、そろそろ限界に達しそうだ。俺は彼らから本国を突き上げてこいと陳情書を山ほど受け取って、帰途、イヴェルタリー伯爵と領地で協議したんだ」

「ああ、あなたが挨拶に妻の実家へ寄っていたんじゃないか、と思われていた話ね」

「お前にはまだ話していないのに、やっぱり知っているのか……まあ、そこで色々話した。少なくとも、イヴェルタリー伯爵は侵攻にも和平にも反対だった。現状維持、それが今の侵略状態に最低限の大義名分を付与しているのだから、と。意外にも両国やルーヴァ連邦同盟の情勢まで見通していて驚いたよ」

アルバートは感心していたが、私は意外でも何でもない。

父は誰よりもイヴェルタリーの責務を全うせんとする人だ。イヴェルタリーは伯爵であり騎士、王の剣であり盾、忠節の貴族であり王のもっとも近しい敵。それゆえに、ときには王よりも世界を知り、情勢を見極めることさえある。

おそらく、次兄も父と似た考えを持ち、海を隔ててもある程度は情報を共有しているのだろう。それに、アルソナ王国本国での諸事情のすべてを私も見聞きしているわけではないが、無策に敵の懐へ飛び込むのは愚かだということくらい分かる。

とにかく、アルバートは早く攻め込ませろという大量の陳情書を抱えて帰ってきて、それをどうしたのか。

アルバートの話の舞台は王宮へと移る。

「で、王宮での外交部門会議だ。俺はそこでは末端の新米だからほとんど発言はしていないんだが、なぜか和平を主張する外交官が数人いた。これだけ優位な状況で和平というのも……まあ、途中参加の国王が頷かなかったからその場で結論は出ず、あくまで意見扱いだ。ただし、現地の連中がさらなる侵攻を望んでいることについては、誰も口にしなかった。それが気がかりでな」

そんなもの、答えは一つしかない。

ウーリゼン帝国との和平工作を進めている王宮の大臣や官僚たち、外交官も含めて——彼らはとっくの昔に動いていたのだ。

「どこかで情報が遮断されている。現地の声が王宮へ上がらないように、貴族たちや窓口の官僚へ口止めをしているのね」

「そう、それは間違いない。だから俺は、報告書と陳情書をまとめて伯母上へ預けてきた。国王陛下がお望みであればお渡しください、と言ってな」

そこは血縁の強みだろう。王妃マルタは妹の子を拒まず、国王への情報ルートを作らせた。それだけでも希望が繋がる。アルバートはこの三年間で、そういう小技を多く身につけたようだった。

だが、アルバートは王室と特別親しいわけではない。膝を突き合わせ、腹を割っての話まではできていなかった。

「とはいえ俺は王室から見れば部外者、血の繋がりはあっても……という立ち位置だから、早々に帰らさせられたんだがな。ああ、そこでドニー王子とも会った」

「……へえ」

「挨拶をして、それで終わりだったがな。向こうが俺の顔を見るなり不機嫌に帰っていったんだ」

アルバートは、その名を聞いた瞬間の私の顔の変化に気付いていない。気取らせず、私は顔の緊張をほぐしておいた。

当のアルバートは、自分の話の中身で怪訝そうに首を傾げている。

「しかし、あいつはあんなに根暗だったか? 余計なことはしゃべらず、独りで俯いてばかりで覇気もない。俺たちと年齢も変わらないのに顔色も悪かったし」

私は、ふぅん、と適当に流しておくふりをした。

普段から見ていない人間の腹芸を見抜けるほど、アルバートは世長けてもいないし、観察眼も養われていない。これ以上聞いても埒が開かないから、話を進めさせたほうがマシだ。

「それと、メリザンド王女について聞こうとしたら、黙っておけ、と伯母上から睨まれた。だからそれ以上は何も情報はない。追い払われたも同然だ」

「あなたの過去のやらかしのせいではなくて?」

「かもしれないが! とにかく、いつの間に王宮でウーリゼン帝国との和平案が出はじめたやらだ」

「少なくともこの三年間、貴族たちの間でもその話は出ていなかったわ。三年も続く戦争だけれど、東の大陸沿岸部の領地化によって収益は上がっている。やめる理由はない、ルーヴァ連邦同盟だってそんな要請をしてきていないでしょう?」

「そうだな。今の 膠着(こうちゃく) 状態がやつらにとっても利益があるんだろう。多少アルソナ王国貴族をのさばらせても収支は合うし、やつらの立場に立てば——ウーリゼン帝国の勢いを削ぐためにはアルソナ王国との協力関係が欠かせない。それはルーヴァ連邦同盟に派遣されていた外交官も同じ見解だった」

ここまでの話で、私とアルバートの得た情報が正確であれば、目下の大問題はたった一つに絞られる。

ウーリゼン帝国との和平を望む一派の存在。

彼らの策動が、結果的にドニー王子とニリュフェルの婚約を作り上げたのだ。